「働き方改革」法案の衆院採決強行糾弾!
労働者の「闘い方改革」が必要だ


 五月三十一日午後、自民・公明の与党は、維新の会等を従えて、衆議院本会議で働き方改革関連法案を強行可決した。この暴挙を、われわれは怒りをもって糾弾する。
 同法案は、過労死ラインを上回る月一〇〇時間という水準での時間外労働の上限規制、高度プロフェッショナル制度( 以下「高プロ」)の導入、「同一労働同一賃金」を僭称した格差賃金の法的な容認、雇用対策法の改悪等々をその内容としている。厚労省の調査データの不備が明るみに出て企画業務型裁量労働制の対象拡大は法案から削除されたが、他の問題は解決しておらず、審議も深まっていない。

高プロ導入は法定労働時間の破壊

 とりわけ高プロの導入は、旧日経連時代から独占が狙ってきたホワイトカラーエグゼンプション、すなわちホワイトカラーの大部分を労働時間規制の適用除外にしようという野望を、部分ではあれ実現する改悪だ。高収入の一部専門職という「蟻の一穴」から労働基準法の根幹である法定労働時間制を破壊するものだ。
 企業は労働時間を把握する義務を免れ、休憩時間も深夜労働の規制もない「二四時間働かせ放題」が可能となる。日本労働弁護団や過労死遺族が訴えてきたとおり、過労死促進の「残業代ゼロ」法案だ。

運動主体の弱さを見据えよう

 同時に、われわれは、運動主体の弱さを直視し、その克服の途を探らなければならない。
 連合は、「高プロは実施すべきでない」との事務局長談話を五月八日に公表したのみで、院内集会を除き大衆行動をいっさい組織しようとしなかった。
 全労連、全労協は雇用共同アクションが組織する集会や座り込み行動に結集し、さらに全国キャラバン等に取り組んだものの、組織力量、大衆的な広がりになお限界がある。
 二十二日夜に日比谷野音で開催された二〇〇〇名規模の集会は労働弁護団が主催することによりかろうじて労働三団体、中立労組、市民運動を結集できたものだった。なによりも強行採決直前の数日間、首相官邸前で座りこんだのは労働組合ではなく「全国過労死を考える家族の会」であったことが、運動の到達水準を示していると言えよう。
 フランスではどうだったか。昨年秋、マクロン新大統領のもとで進められる労働法改悪に反対して、労働総同盟(CGT)などの呼びかけにこたえ四〇万人がストライキとデモに参加し闘った。いまも、フランス国鉄「改革」案に抗して、国鉄労働者は四月から長期ストライキで闘っている。学生や公共部門の労働者も支援に起ちあがっている。
 だが、彼我の違いにため息をつくだけでは済まされない。
 本紙五月十五日号の沖江和博論文が報告するとおり、フランス国鉄労働者の長期ストライキに対して、マクロン政権とブルジョワマスコミは手を携えてスト反対のキャンペーンを張り、世論の分断を図っている。マクロンらは「ストの文化をなくす」と公言しているという。国鉄労組を狙いうちにすることで労働運動全体を押さえ込もうとしているのである。
 欧州委員会やフランスの政府・独占にとって、日本の労資関係や労働法制は、さぞかしうらやましい見本と映っているに違いあるまい。

労働力は時間で量って売るものだ

 日本企業は、徹底的な要員の削減と過重なノルマによって労働者を長時間労働に追いやっている。
 労働者ひとりひとりの立場に即して言えば、「経営者のように」考えることを強いられノルマに責任を持たされるなかで、労働契約に基づく所定労働時間を守り守らせる意識を解体されているのだ。
 労働力を時間で量って売るという概念こそが労働者の抵抗思想の根底をなす。これは老若男女さまざまな条件と能力を持ち合わせた労働者が、資本に殺されないために階級的に闘いとってきた歴史的な成果である。敵階級はまさに、そこに焦点を当てて攻撃を仕掛けているのである。
 働き方改革法案を準備した政府・経済財政諮問会議(二〇一四年四月二十二日)での長谷川閑史経済同友会代表幹事(当時)のいわゆる長谷川ペーパーはそれを象徴している。すなわち「労働時間と報酬のリンクを外す」と。
 われわれはこのことを肝に銘じなければならない。

労働組合の規制力と労働者思想の再建を

 高プロの適用にあたって、法案は企業の労使委員会の決議と本人の同意を要件のひとつとしている。高いハードルを装ってはいるが、なんのことはない、現行の裁量労働制でも同じ要件が課されてきた。にもかかわらず、野村不動産をはじめ違法な裁量労働の適用がまかり通っている現状は、労使委員会や本人同意が歯止めになり得ない現実を示している。
 しかし、それでよいのか。
 たとえばフランスと比較したとき、法的な規制の貧弱さは言うまでもないが、それだけではなく、労働組合による規制がないことが、日本企業の専制的な労働者支配を許し、過労死・過労自死の発生を許してしまっているのである。
 もちろん、それは国民性とか民族性といったことではない。一九四五年の軍国主義日本の敗戦以降の現代史、すなわち労働運動の高揚と敗北、レッドパージ、民間で先行した労資協調・労資癒着の潮流による労働運動の制覇、七〇年代後半以降の新自由主義の跋扈、総評・社会党ブロックの解体と連合の発足、社会主義世界体制の崩壊、国境を越える資本のグローバルな競争、といった歴史と運動の推移のなかで、職場における労働組合の規制力が破壊されてきた。それと並行して、労働者として資本に対峙し抵抗する思想が奪われ、あるいは眠りこまされてきたのである。
 職場で労働組合規制を再建し、階級意識を奪い返すことは、一朝一夕にはできないとしても、志をともにする活動家が先頭に立って、それぞれの組織と運動を強化していくことから始める以外にない。
 資本の側の価値観から自らを峻別する「THEM AND US」の労働者思想を確立し、ストライキを打てる運動と組織を仲間とともに作り上げていくほかないのだ。
 フランスをはじめ世界各国の労働者階級は、ブルジョワジーが推し進める新自由主義政策に抗して闘っている。日本の労働運動を大衆的に再建し強化することこそが、こうした闘いに連帯し、貢献することになるだろう。
 働き方改革関連法案の成立を阻止する闘いはまだ終わっていない。職場、地域から、ナショナルセンター、産別の違いを超えて闘いに起ちあがろう。【吉良 寛・自治体労働者】

(『思想運動』1023号 2018年6月1日号