ビキニ被爆六四年 久保山愛吉忌――対談と映像の集い
マグロ塚に託す、原爆マグロと核の脅威


 一九五四年三月一日、米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行なった水爆実験によって約一六〇キロ先で操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆した。その元乗組員だった大石又七さん(八四歳)が代表の「築地にマグロ塚を作る会」が、無線長の久保山愛吉さんの命日前日の九月二十二日に、集会を開催した。
 第一部は、この日に合わせて急遽制作された映画『大石又七さんが語る核と被爆―「いのちの岐路に立つ―核を抱きしめたニッポン国」(抄録)より』(二五分 DVD版一〇〇〇円)の上映。第二部は、大石又七さんと市田真理さん(第五福竜丸展示館学芸員)との対談「なぜ今マグロ塚なのか」が会場からの質疑を交えて行なわれた。

ビキニ被爆を語れるようになるまで

 六四年前、「死の灰」を浴びた「原爆マグロ」やサメなど約二トンが築地市場に持ち込まれ、焼津からの急報でセリは中止。検査の結果、高濃度の汚染がわかって場内は大パニックにおちいった。
 場内放送が緊急を告げ、洗浄車が走り回り、汚染された魚は市場内の片隅に埋められた。第五福竜丸以外に八五六隻の被爆漁船がとってきた魚約四六〇トン、刺身にして二五〇万人分が被ばく鮮魚となった。日本中が「核の恐怖」でパニックとなり、マグロのみでなく鰹、かまぼこ、干物にまで買い手がつかず、消費者の魚離れによって値段も暴落。多くの鮮魚店や寿司屋が廃業に追い込まれた。
 大石さんは、「第五福竜丸」乗組員二三人の中で最年少、今や数少ない生存者の一人だ。被爆という死への恐怖を抱きながら、郷里焼津では、被爆者への偏見差別、米国と日本政府との政治的決着によって支払われた見舞金へのやっかみ等から逃げるように上京。そしてクリーニング店を営みながら、事件については沈黙をしてきた。だが一九九六年、地下鉄大江戸線の建設工事の際の築地市場に埋められたマグロの発掘調査で、マグロの骨は見つからなかったものの、「原爆マグロ」に再び注目が集まったことから、「生き残った自分が、真実を語っていかなければ」と決意して、それまで固く閉ざしていた心を開き、小、中、高、大学生など学校講演に積極的に出向き、この事件を語るようになった。

マグロ塚への熱い思い

 そして「人間はいずれ言葉を失う。石はしゃべらないが、五百年、千年先でも、平和を考える道しるべとなってくれるはず」と考え、築地市場に「マグロ塚を作ろう!」と講演先で呼びかけ、瞬く間に一口一〇円募金が三〇〇万円集まり、署名も二万二〇〇〇名集めることができた。その募金で築地市場に埋められた魚二トンに匹敵する海の色に近い伊予の蒼石を購入した。
 当時の青島都知事に手紙を書き、築地市場に「マグロ塚」の設置を要請したものの、築地市場の再整備で大議論中だったために、「マグロ塚」は、新木場の都立夢の島公園内の「第五福竜丸記念展示館」の裏庭に仮置きとなった。その代わり九九年八月、築地市場正門脇の地下鉄出入口に原爆マグロのプレートが設置された。
 以来一九年、築地市場移転騒動もあり、この話は不問に付されたが、豊洲移転を前にして大石さんは、集会での対談で「ビキニ事件が遠い過去の出来事として忘れさられている。その要因は加害国アメリカの支配の下、日本政府は事件を隠蔽し、若い世代に語り継いでこなかったためといえる。わたしはこれまで七~八〇〇回以上子どもたちの前で語ってきたが、熱心に耳を傾け、感想文を寄せてくれた。
 核兵器はそう簡単に無くせないと思っている大人が多いが、これからの若い世代に未来を託して、核の脅威を語り継いでもらうためにも『マグロ塚』の築地市場への移設を実現したい」と強い決意を語られた。現在、土壌汚染問題をはじめ数多くの不安材料を抱えながら小池都政は、築地市場を十月六日に閉場し、十月十一日から豊洲新市場の開場を既定の路線として決行しようとしている。その後、築地市場は解体され、跡地は二〇二〇年東京五輪・パラリンピック用の駐車場になるという。しかし、五輪後の築地市場再開発計画は、専門家による会議で議論された構想(案)はあるが、具体案は未定である。
 歴史の負の遺産から学ぶことなくして、安全で平和な未来はないといえる。築地市場八三年の歴史上、魚離れが起きた最大の事件といえる「原爆マグロ」事件を語り継ぐ上でも、「マグロ塚」の築地市場跡地への設置の意義は大きい。【高橋省二】

(『思想運動』1030号 2018年10月1日号