「骨 還せ」訴訟から見えるもの(上)
こんにちまで引き継がれる731部隊を生んだ戦争犯罪の系譜

木原健一(京都在住)

二〇一八年、松島泰勝氏ら五名のウチナーンチュは遺骨の返還と損害賠償を求めて立ちあがり、丹羽雅雄氏ら弁護士五名を原告側訴訟代理人として京都地裁に国立大学法人京都大学を提訴した。沖縄二紙をはじめ産経を含む全国紙や地元京都新聞は、京大相手に訴訟したこの裁判を「遺骨返還を求めて」と全国的に取り上げ、社会の関心を引き寄せているが、被告京大側は未だ誠意ある対応を見せることなく、今日に至った。
七月三十日、わたしはその第六回口頭弁論が開かれた京都地裁一〇一号大法廷で、原告側の準備書面陳述を傍聴した。前日の「シンポジウム・日本人類学会の植民地主義に抗議する」集会、さらにその二日前に開催のZOOMオンラインの第八回「人骨問題を考える連続学習会@京都大学」に参加して、「骨 還せ」訴訟の進行とともに現代日本の抱える問題があきらかにされつつあると感じた。それが何からきているのか、見極めたくて、とりあえず、気にかかることを整理しようと思い立った。調べたことどもを次に記して、当日の原告側口頭弁論の様子も報告したい。

いま京都大学で何が?

京大新聞記事から、京大の今を探ってみた。そこにあったのは、一九九九年の〈国立大学の独立行政法人化〉閣議決定が二〇年かけてつくり出した成れの果ての京大の姿だった。
今年の『京大新聞』七月十六日号に「総長選を考える――京大内部の状況の変化」と題した座談会記事がある。そのなかで駒込武京大教授が「今考えると、二〇一五年頃を境に、教授会で議論されるべき大切なことが議論されないようになりました」と発言している。変化をもたらしたのは、松本紘前総長の剛腕のもとで進行した京大教職員組合の組織力低下はもちろんのことであるが、二〇一四年文科省通知の「学校教育法及び国立大学法人法の一部を改正」によるところが大きい。この省令が、文科省意向に沿って戦略的に大学運営できるガバナンス体制の構築・実現の法的根拠を与えたのである。山極壽一総長は改正法成立時期の二〇一四年総長選挙で松本総長への反感を背景にして登場した。しかし、その後の総長任期の六年間は、文科省のお先棒担ぎとして全国大学に先駆けて旗振り役を演じた松本前総長が目論んだ大学ガバナンス改革の総仕上げという皮肉に満ちたものであった。「改革」実行指揮者は先の総長選で松本総長の後継候補として立候補して山極現総長に敗れた湊長博医学部教授である。山極総長は、こともあろうにこの敗者湊を理事に指名し、法改正で「自らの権限で校務を処理」できるとされた副学長に就かせてしまったのである。
百万遍石垣からのタテカン撤去や吉田寮からの寮生立ち退き訴訟などは可視化しやすいのでマスコミに取り上げられて耳目を集めやすいが、文科省の意図する「改革」の成否は外部にいる者には見えないものである。たとえば、教授会権限規定の変更がそうである。これまでの「重要な事項の審議機関」から「学長に意見を述べる諮問機関」への変更は、教授会メンバーのモチベーションを否が応でも低下させる。取り扱う事柄の審議範囲が狭められ、代わりに権限拡大した副学長制度は学内で起こっているさまざまなできごとから教授会を遠ざける。そして教授会メンバーの大学内のできごとに関わろうとする意欲を失わせる。前述の駒込氏の話の「今考えると……」というように、「改革」は静かに進行する。
七月総長選で、山極総長の後任は湊副学長にきまった。京大は今後も、ガバナンス志向を強めるであろう。その志向が強まるほどに、大学内に事なかれ主義が蔓延し、文科省の行政機関下請け化が進行するのであろうか。そうであれば、京大の社会における存在感はまちがいなく薄れてやがて消えていくことになる。

琉球遺骨返還請求を受けて

琉球遺骨返還問題が新聞報道などで広く知られる状況に危惧を抱いたのか、法廷の外からもう一人のプレイヤーが参入してきた。日本人類学会篠田謙一会長なる人物である。二〇一九年七月、かれは山極総長に『要望書』を提出し、「古人骨資料の管理につきましては、今後、様々な運動が発生するかもしれませんが、(中略)国民共有の文化財という認識に基づいて対応をとっていただきたい」と申し入れてきた。つまり、返還請求に応じるな! と、要望してきたのである。
山極総長が、この申し入れの件について尋ねられたことがあった。京大職組との会見席上でのことである。そのとき、山極総長は「京都大学は研究機関なので、研究者のネットワークを重視する」と、その要望に応える姿勢を示唆したのだが、それで終わらずに原告のひとりについて「訴えている方は問題のある方と承知している」と中傷してしまった。(1)一四年総長選の折に、その人柄を「良心的・温厚的」と評された人のことばだと思えない問題ある発言であった。
感情的な印象を与えるこの発言が、過去の華々しい経歴をもつ一族の過去のできごとを思い出してのことか否かは分からない。だが、山極総長に祖父の兄である山極勝三郎(一八六三―一九三〇)がいたのである。かれは有力なノーベル賞候補であったともいわれる人物で、人工的発癌実験をした東京大学病理学部教授である。そのかれが生体染色法の研究で成果を上げた京大医学部教授清野謙次(一八八五―一九五五)の帝国学士院賞授与にさいして推薦人をつとめた。(2)裁判は、思わぬところに潜む因縁めいた人間関係を明るみに出した。つまり、琉球遺骨盗取を問題とする原告が訴えた被告は京都大学総長山極壽一であったが、その被告はあろうことか、盗取問題を引き起こした遺骨採取を命じた清野謙次と過去の山極勝三郎を介して連なっていたわけである。
次からの二項では、「骨 還せ」訴訟問題と歴史的背景を同じにする、京大が問われているもう一つの請求「学位取り消し」問題をとりあげ、「骨 還せ」が問題視する欺瞞と隠蔽に満ちた日本歴史の今と向き合いたい。

京大の清野と石井

琉球遺骨の盗取を命じた清野謙次は、また731部隊を創設した石井四郎(一八九二―一九五九)と師弟の関係にあった。しかも、石井の要請にこたえて多くの京大研究者を731部隊に送り出していた。
まず、731部隊と京大とのつながりは森村誠一『悪魔の飽食』によって広く知られているが、『京大病理学教室史における731部隊の背景』(3)を参考に、京大が一五年戦争中の戦争犯罪にどのように加担したか、その側面からとらえてみたい。

〈清野という人物〉
その前に、清野謙次のことにわずかばかり触れておく。
医系の家に生まれた清野は、大阪北野中学在籍中から古墳発掘するほどに考古学や人類学に熱中し、その道に進もうとするが許されず、京都帝国大学医学部に学び、一九二一年に微生物学教室教授、二二年に帝国学士院賞受賞、二三年に病理学第二講座兼任教授、二八年に病理専任教授という目覚ましいほどの経歴を有している。
清野の人物像を三一年『大阪毎日新聞』「京大展望」(4)の記述から引用する。「京大(医学)の三秀才、という言葉がある。外科の鳥潟隆三、病理学の清野謙次、生理学(慶大教授)の加藤元一の三博士がそれだ」、「家には巨万の富と、麗人の妻とがあり、健康と頭脳にも飛び切り恵まれている上に、親分肌の太っ腹。人骨を愛するように書生をも可愛がり、教室の研究生を博士にすることでは京大一」。ところが、河内国府の石器時代遺跡で一七年~一八年にかけての大発掘事業に清野が参加して、「多数の古代人骨を発掘して以来彼の考古癖、人類学熱は勃然として再燃」、「自来彼は学的コースを一転して人類学へ邁進」とある。そして「国内はもとより、樺太から満洲まであらゆる所へ『骨堀り』に出かけて古代人骨を集めること今や千余体、数において世界一」と筆者来間恭が評するほど、清野の収集癖のすさまじさがそこに記されている。
この清野と731部隊を率いる石井四郎の関係がはじまるのは、石井が京大卒業後に近衛歩兵連隊の軍医中佐となった後に博士号取得のために大学院生として微生物学教室の清野を訪ねた一九二四年からのことである。そのあたりの経緯を〈15年戦争と日本の医学医療研究会〉のさまざまな調査・研究報告を足がかりにして、次に記す。

〈石井と京大〉
石井は、二四年当時、香川県で猖獗を極めていた嗜眠性脳炎調査を清野に提案する。清野は石井提案の調査活動の実現に肩入れする。その結果、石井は大所帯の調査隊を率いて七か月に及ぶ調査の主導的な役割を担い、同時に、感染機構の実験にサルの生体を用いるとか、病変や検体を調べる目的で死体を墓から掘り返すという一連の体験を通して、感染症解明のために病理解剖が重要だと痛感し、そのことが信念になった。これが満州時代におけるマルタと呼んで研究目的のために数知れず繰り返した生体解剖実験につながる。いわば、師の清野は死んだあとに残された骨を、弟子の石井は生きた人体を、それぞれの研究材料としたのである。
香川調査を成功させた石井は荒木総長の娘を妻に迎え、一挙に社会的信頼と活動地盤を手にいれる。二八年、清野に勧められて欧米二五か国の旅に出る。自費渡航による各国細菌戦準備状態の調査である。三〇年に帰国した石井は、「我が国の国防には欠陥がある。国際的に禁止されている細菌戦の準備が必要」と、義父荒木だけでなく医学者で東大総長の長与又郎も巻き込む学界人脈を背景に、細菌戦への研究の必要を執拗に説き、実現に邁進する。
「満州国」建国年の三二年八月、石井は念願の防疫研究室開設にこぎつけ、軍医学校内に軍医五名配属組織の首班となってその組織拡大に取り組む。二年目には軍医七人、要員三五人を擁し、三年目にはハルピンに極秘の細菌研究集団「東郷部隊(加茂部隊)」を組織し、捕虜を材料にした炭疽菌接種などの人体実験へ乗り出す。
三六年、日本帝国陸軍石井部隊は「関東軍防疫部」として再編成され、主に急性伝染病の防疫に関する調査研究と細菌戦準備任務にあたり、日本の中国侵略がとどまることなく拡大するにつれて、四五年に石井部隊は「満洲第25202部隊」と改称される。敗戦直前における所属人員は、復員調査による厚生労働省の集計によれば(5)「三五六〇人(軍人一三四四人、軍属二二〇八人、不明八人)」規模にまで達していた。

〈研究員供給〉
石井部隊が如上規模に拡大する過程で、その医学・医療従事者の研究員補充に機能するのが、部隊の医師集団であり、かれらの出身校の医局や指導教官を介して募集・確保されてきたのであった。日本の医学校の教師陣は、東大、京大両帝国大学二校から長らく受け入れてきた経緯があり、石井の京大医学部との濃厚な関係は研究者確保に大きく役立った。とくに清野は三八年の窃盗事件で服役、免職されたものの、四一年には太平洋協会の嘱託となり、大東亜共栄圏建設に人類学者として参加。京都大学での愛弟子にあたる石井四郎が部隊長だった731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務め 、京大からの研究者供給が途絶えることはなかった。
次に記すのは、清野後の京大医学部も石井部隊と深い関係を保ってきたことがわかる戦争終末期の出来事である。

731部隊員の学位審査

いま、京大は「平澤正欣将校博士論文検証請求」問題にも問われている。論文検証を求めているのは、「満州第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」である。二〇〇〇年設立の〈15年戦争と日本の医学医療研究会(略称:戦医研)〉が調査・研究に取り組む過程で、反人道的内容の論文を見つけた。二〇一八年七月、戦医研の西山勝夫滋賀医科大名誉教授らは、五四〇名の署名を添えて、山極総長に提出論文の検証を求める要請書を提出した。大学側執行部は九月からの予備調査を約したが、一九年三月の回答で、本調査をする事由が見つからないと返答し、その後の調査に取りくまない姿勢を示した。
しかし、ここに731部隊と密接で容易ならざる関係を京大医学部が結んでいたことがあきらかになった。学位授与にどのような事実が隠されているのか、なぜ、京大は本調査を拒むのか、戦医研西山勝夫氏の会誌掲載論文から整理する。(6)

〈行方不明の論文〉
平澤正欣(一九〇八―四五)は京大から731部隊に送られた研究者である。そして、731部隊が中国での細菌戦で使用した細菌や有毒物の輸送、航空散布の任務に就いていた様子も、「平澤という軍医が、主として航空班を牛耳って、自分も操縦するということをやっていた」との証言(7)からうかがえる。
戦医研は、731部隊関連の論文調査も研究・調査の一環として始めたが、平澤学位論文は京大保管書類から学位授与経緯はわかるが、論文そのものの所在だけは杳(よう)としてわからなかった。しかし思わぬところから判明した。『陸軍軍医学校防疫研究報告第2部』の復刻協力プロジェクトチームの立ち上げに戦医研が関わった活動のなかで、会外協力者の常石敬一氏が国立国会図書館収蔵論文のなかから見つけた。その収蔵資料によって平澤の論文内容が分かったが、そこから判明した内容は、問題に満ちた様子を物語っていた。
まず、論文審査の経緯である。敗戦まぢかに迫る四五年五月三十一日に731部隊所在地から京大に学位申請があり、同年六月六日に主査戸田正三、副査木村廉、杉山繁輝による審査、同十五日に木村廉医学部長から羽田亨総長へ答申、同二十八日の同総長から文部省へ申請を経て、同年九月二十六日に学位授与の認可がおりたことが分かった。当時の同学部では、学位申請から教授会審査に要する期間は平均七八日であったが、平澤のばあいは極端すぎるといえる短時日の七日間であった。しかも、当の平澤は六月六日戦死として記録されている。(8)どうやら航空機事故による死亡だったらしい。
次に論文の内容と審査評価についてである。
西山氏は、論文には731部隊の人体実験に関する数少ない証言を裏付ける研究実態が記されているとして、研究にあたっての問題点三点を指摘する。すなわち、
(一)実験対象がヒトであるにもかかわらず、サルと記されていること
(二)実験対象は健康であり、治療を目的にした実験ではなかったこと
(三)実験対象の発症後も治療しないで、死に至るまで経過を観察したこと
指摘は次にそのような問題性を孕んだ論文にたいする審査内容に及ぶ。審査時の論文要旨書において、「特殊実験」という用語を使用し、「更に進んで特殊実験を行い、先人の見解と異なり『イヌノミ』も亦人類 に対する『ペスト』媒介蚤なる新事実を発見せり」と積極的な評価をしていた。当時の医学部が人体実験であることを承知し、しかも新事実発見と評価しながら学位審査を行なったことが、この評価から明らかになったのである。
審査にあたった三人はいずれも三者三様に石井部隊との縁浅からぬ人物たちであった。戸田は石井が清野のもとで嗜眠性脳炎調査事業の予算獲得したときの医学部長であり、木村は調査事業の時に石井に同行し、その後に微生物学教授に清野の後任に就いた人物である。また清野門下生の杉山も病理学教授に就任した金沢大学においても、また京大病理学教授兼任後の三八年からの京大においても石井部隊に研究員を送り出した人物である。
京大の予備調査の結論は、「使用された動物がサルであるということを明確に否定できるほどの科学的合理的理由があるとは言えない」ことに加えて、平澤に対するヒアリングができない上に実験ノートや生データもないことから本調査を開始することはできない、と説明した。
京大は、負のかかわりである731部隊と京大の関係を明らかにすることを嫌っているようだ。二〇一四年医学部資料館が完成した折、二〇〇八年刊の「京都大医学部病理学教室百年史」から引用したパネル2枚を展示し、その説明文に731部隊の「発祥の主たる舞台となった京都大学医学部としても検証が必要なのでは」と記されていた。しかし、すぐに「通常の展示替え」をしただけと強弁し、撤去している。(9)負の歴史に向かい合わない姿勢をいつまで続けるのか、と考えさせられる。

京大の「人類学」

本訴訟では人類学の研究の在り方が問題になっている。

〈人類学と価値観〉
人類学が欧米で学問として成立を見るそもそもの淵源は、ローマ教皇が君臨した時代の「新」大陸発見につづく大航海時代に、ヨーロッパ人が見いだした「未知」の世界の社会との出会いにあるといえる。一九世紀後半に登場する「人類学」は「博物学」から誕生した学問であり、産業資本主義のもつ世界性が地球的規模で展開する交易と植民活動のなかでヨーロッパ世界にもたらされた知見である。そのため、人類学は、世界のヘゲモニーを握ったヨーロッパ社会から見たヨーロッパ中心思考―すなわちヨーロッパ社会を世界の規範とみなし、その規範を世界に押し付け、ヒエラルヒーの頂点に立って残余の世界を「未開」から「開化」という序列のもとで区分する差別意識―とは無縁でなかった。
わたしは、日本の人類学には、「脱亜入欧」に邁進する明治期日本が要求した「国民的」アイデンティティ形成に貢献することを時代から求められていたと考える。一八八四年の坪井五郎(一八六三―一九三五)らの「日本人」起源論を主なテーマとする東京大学研究会の活動開始がそうである。「二等国」から「一等国」参入を目指す日本は、維新政府樹立から一〇年も経過しない一八七五年に早くも朝鮮江華島に軍艦を派遣し他国への武力行使に及んでいる。これは、欧米からは「二等国」扱いをされている日本がその欧米の植民地主義と同様の暴力を朝鮮に向けた瞬間である。対外的進出にあたっては、一つになる「国民」意識および相手を「未開」とみなす差別意識の形成が必須である。
人類学が人種や民族をあつかうなかでその分類基準や表現に「進化」や「優劣」を問う価値観がたとえわずかといえども紛れ込むとなれば、大問題である。そのような他者意識の欠如は、近代世界における戦時であれ、平時であれ、おびただしい悲劇をもたらすが、そのことは日本の過去のことにとどまらず、現在においても無関係でない事実である。

〈人類学―日本と京大〉
人類学の日本での受容の仕方を分化・展開してきた学会としてみると、一八八四年からの「日本人類学会」、一八九五年からの「日本考古学会」、一九三四年からの日本民族学会(その分岐に「日本文化人類学会」)、および一九三五年からの「民間伝承の会」(四九年に「日本民俗学会」に改称)となる。(10)
京大には「人類学」の看板を掲げた講座はなかったが、設立理念において東大と異なるドイツの研究大学を模した医科大学を前身にもつ医学部があり、医学史研究家の神谷昭典によると、そこでは「単なる西欧学術の移植にとどまらない『日本の医学』の原形を模索し、…〝日本人の解剖学〟〝日本原人の研究〟」がなされたとある。(11)
人類学は、医学部内の二つの教室の講義で扱われた。ひとつは、東大出身教授の足立文太郎(一八六五―一九四五)教授の解剖学教室の筋肉や血管の人体軟部を対象として日本の「軟部人類学」の確立を目指す講義であり、あと一つが清野謙次の病理学教室の考古学的立場から北方のアイヌから南方の琉球人にいたるまで同一の祖先とする原日本人の存在を、調査を通じて論証する「日本人の起源」をめぐる講義である。足立は金関丈夫(一八九七―一九八三)に「琉球現代人骨格の蒐集」を命じ、清野は三宅宗悦(一九〇五―一九四四)に「南島住民の形質を解明」するために琉球古人骨の収集を命じた。

〈盗取訴訟対象の遺骨〉
板垣竜太氏が、金関と三宅の南島調査に際しての遺骨収集を各種論文、資料を精査し、判明したことと不分明なことを洗い出したうえで、今第六回口頭弁論に際して「意見書」を提出し、あらたに返還要求をする追加の琉球民族遺骨を明らかにしている。それによれば、「現在、京都地裁で争われている琉球民族遺骨返還訴訟では、当初より、金関丈夫(京都帝大・解剖学教室)が一九二九年一月に持ち去った遺骨が注目されてきました。しかし、実のところ京大で所蔵が確認されている琉球民族遺骨のほとんどは、一九三三年十二月に奄美大島と沖縄本島を調査した三宅宗悦(同・病理学教室)が持ち去ったものと考えるのが妥当です。そのことは京都帝大・京大の責任について新たな議論を要請するとともに、奄美と琉球をつなぐ視点ももたらします。」という趣旨内容である。


(1)『職員組合ニュース』八月二十六日発行の二〇一九年度第二号
(2)「意気昂然と二歩三歩―山極勝三郎博士の生涯と業績」上田市マルチメディア情報センター
(3)『NO MORE 731 日本軍細菌戦部隊』Ⅰ―2京大病理学教室史における 731部隊の背景 杉山武敏
(4)『京大展望』来間恭 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・人物伝記(4―026)『大阪毎日新聞』一九三一年
(5)池田光穂「731部隊と石井四郎」
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/unit731_and_shiro_ishii.html
(6)『戦争・731と大学・医科大学』Ⅱ―8「731部隊所属医師の学位授与などの妥当性」西山勝夫
(7)『NO MORE 731 日本軍細菌戦部隊』Ⅱ―1 旧日本軍731部隊における私の体験 篠塚 良雄
(8)『日本陸海軍総合辞典』
(9)『医学部資料館 一般公開へ 解体新書など貴重資料』京都大学新聞(二〇一四年九月一六日)
(10)『収集と権力―京都帝大人類学研究室の「南島」調査』板垣竜太(同志社大学)二〇一九年六月十三日
(11)『戦争・731と大学・医科大学』Ⅰ―1 15年戦争下の医学教育 神谷 昭典
(以下次号)

(『思想運動』1056号 2020年9月1日号)