労働運動活動家座談会
労働運動再生の糸口をどこに見出すか
労働者一人ひとりが主体となる運動をめざして
藤原晃(学校労働者・司会)/須田光照(東京東部労組)/庄子正紀(全労働者組合)/吉良寛(自治体労働者)/土松克典(活動家集団 思想運動)
本紙前号の年頭座談会を受けるかたちで、1月12日、運動主体形成の問題、とりわけ労働運動再生の課題をテーマにした座談会を開いた。論議し尽くせなかった問題も多く、引き続き議論を深める機会をつくっていきたい。【編集部】
藤原 今日はよろしくお願いします。1月1日号の年頭座談会は現在の状況のなかでどうやって運動を再興していけばよいのかという問いかけで締めくくられています。今年度、わたしは高校の教職員組合の専従をしていますが、やはり階級的労働運動という性格が急速に失われている、否むしろ労働運動自体が日々崩壊しつつあると感じています。それをどうやって回復していくかはこの間のわれわれの論議の中心テーマでもありました。前回の座談会の終わりでは、アメリカがいま行なっている侵略戦争、つまり中国包囲網を完成させていく帝国主義的戦略ですが、日本はアメリカとともにそれを押し進めている。しかし、それに多少なりともブレーキをかけるような運動が日本のなかではきわめて弱い、そういう状況認識が確認されました。
たとえばイスラエルのジェノサイドに対する抗議運動を見ると、世界各地で数万から数十万人が参加するデモや労働者のゼネストが闘われている。ところが日本では反対運動が起こせない。あったとしても海外とは比べものにならないほど小規模だ。そうした状況をどうしたら転換できるかについて改めて論議しようという提起で前回の座談会は終わっています。
一言でいえば、大衆運動の再生の課題だと思うのですが、やはりカギとなるのは労働運動です。平和運動にしても、さまざまな人権・環境の運動にしても、かつてはそれらの運動を労働運動が支えていた。いまでもそういう構造はある。労働運動の組織的支えがないと運動は広がりを持たない。これは皆さんも認識されていると思います。しかしそうした土壌がどんどん痩せ細って、運動の芽すら出せないのが現状ではないでしょうか。
この間の議論のなかで須田さんは労働運動のなかで「社会主義の旗を掲げる」ことの必要性を繰り返し訴えています。庄子さんは運動を通して正規・非正規を問わず、他者の痛みをわが痛みと言い切れるような労働者の共同性を作っていくことがなによりも大事だと主張しています。裏を返せば、いまの日本の労働運動の課題は、弱いものを見捨てて自分だけが強くなろうとする奴隷根性、そして厄介なものを自分の外に追いやって見ないようにする利己主義、この労働者のなかに埋め込まれている思想的弱点を克服していくことだと言えます。
須田さんからお話しいただきたいと思います。
社会主義に向かう労働運動の実践から
須田 東部労組では、ちょうど昨日、労組の綱領を作ろうという連続討論会の1回目がありました。今月から3月にかけて開いていく予定です。昨日はそのとっかかりとして、昨年放映されたNHKの「映像の世紀」の「ロシア革命 世界を覆ったユートピア幻想」を皆で見て討論しました。
観た方もいると思いますが、西側諸国が描きだす典型的パターン、社会主義=悪、もっと言えば独裁とか粛清とか、そういったイメージをさらに増幅させるような、相変わらずの内容でした。ぼくらとしてはだからこそみんなで見る必要があると考えました。職場や地域で社会主義に向かう労働運動をという目標を掲げて活動していくと必ずぶつかる壁があります。「じゃあソ連はどうなんだ」「あの粛清やスターリンを支持するのか」といったことです。それをぼくら一人ひとりが打ち返す思想的な力を持たなくちゃいけないという思いでやりました。いろんな意見が出て引き続き討論しようということになりました。
運動の再生、運動主体の再確立ということを考えるとき、上から変えていくのか下から変えていくのかという議論があります。それはそれで大切な軸だと思いますし、確か藤原さんが前回の座談会のなかで両方からやるしかないとおっしゃっていて、ぼくもそのとおりだと思います。
ただ、もう一つの軸として、内か外かという議論があると思います。外というのは、はっきり言えばレーニンが外部注入論で言ったところの外の話です。ぼくは労働運動、あるいは社会主義運動、階級闘争をどうやって再生するかということについて、上からやっても下からやっても、それだけではなかなか展望が見出せないと思っています。
やはり社会主義という考えを外から注入していく必要がある。外部注入論の評価についてはいろんな意見や議論があることは承知していますが、あえて簡略化して言えば、社会主義の価値観、世界観というものを一人ひとりが獲得していかないことには、先ほど言った「じゃあソ連はどうなんだ」「スターリンをどう評価するのか」といったことにも、あるいは今回のベネズエラについて「あれは独裁じゃないのか」「喜んでいるベネズエラ人もいるじゃないか」といった声に対しても、一人ひとりが反論できる主体にはなれない。やはりおのおのが社会主義の価値観を獲得していかないと、労働運動自体の発展もないのではないかという問題意識で、この2年ぐらいやってきました。
少なくともそういうことをやり始めて、組合のなかでも外でも、〈思想運動〉の方たちともいろんな形で意見交換ができるようになって非常に良かったと思っています。それをどうやって組織論に落とし込んでいくかは一つの課題として議論したいのですが、とりあえずぼくの考える運動再生の視点としていま一番大切なのはそこかなと思います。
藤原 12月1日号には、全労連が中心になって企画したレイバー・ユニオン・カレッジ(レバカレ)の取り組みについての座談会がありました。これはアメリカのレイバーノーツという運動体、活動家集団の実践をモデルにしています。そこでは、まるで商売的労働運動(ビジネスユニオシズム)が繰り返されてきたことが労働者の主体形成を阻害し、労働運動自体の解体を招いてきた。その反省から、上からではなく下から運動を積み上げることを目指した。ただ、その際には、だれでも参加できるように社会主義的言説をとりあえず出さないということも同時に書かれていました。アメリカと日本では状況が違うので簡単には論じられませんが、今の須田さんの話を聞かれて、吉良さん、どうですか。
レバカレの取り組みが提起したもの
吉良 いま、藤原さんがレイバーノーツの運動の傾向というか性格として、上からではなく下からというふうにまとめをされましたが、アメリカの労働運動の改革派にもいろいろな流れがあり、たとえばニューボイスという潮流がありましたが挫折や葛藤がありました。そういう歴史をふまえて現在のレイバーノーツがあります。ですから日本の運動に単純に当てはめることはできないと思いますし、社会主義を前面に出すのかどうかということよりも、何をいまやらなければならないのかという話をしたいと私は考えています。今日の座談会のテーマは「運動主体の形成・強化」です。運動主体の形成と言うとき、それはいったい何なのか。社会主義者になることが主体の強化なのか。たしかにそれもあるとわたしは思いますが、それが第一義の話なのか、疑問です。
先ほど藤原さんが、日本におけるさまざまな抵抗の取り組みが国際的に見てきわめて弱い、それはなぜなのかという問いを出されました。運動全体を構造的に見ると、一つは政治勢力、端的に言えば前衛政党の問題があります。その不在なり弱さというものが、運動主体の課題としてあると思います。また、その指導部の方針の問題とともに、所属するメンバーや支持者が自らの活動をどう作っていくのかということもあるでしょう。今日の議題からは外れると思いますが、運動主体の問題を考えるときに欠かせない領域だと考えています。
今日の議論は、大衆運動、労働組合運動がわれわれの活動のメインなので、労働組合に関して言えば、労働組合の指導部の主体形成と、組合員、あるいは未加入の仲間の主体形成とは、同じではないと思います。わたし自身は支部の執行部にいて、ちょうど双方の真ん中あたりにいるわけです。本部とは緊張関係があり、職場の仲間とは近いところにいてリードする立場でもある。その双方の主体形成、強化というのがわたしにとって大きなテーマです。具体的に何をどうすることが主体の強化なのか、そこが問われていると思っています。
これは言葉遊びのつもりではないのですが、労働現場においてわれわれは資本とか経営者とか上司から、モノ扱い、道具扱いされている、つまり客体にされています。その自分が主体になっていく、仲間を主体に変えていく。それをどうやっていくのかが、まさに主体形成という課題です。
それを草の根から作っていこうというのがレイバーノーツの方向性なのです。全労連が取り組んだレバカレも、それに倣い、近づこうと努力しているとわたしは思っています。12月1日号の座談会でもそのような評価だったと思います。
まず自分たちがいまどういう状態に置かれているかを仲間に言語化して伝えることから始めようと。自分はこういう扱いを受けている、自分はこう感じている、それを口にする。そういうやり取りを通じて、不当な扱いを受けるのは、自分が悪いからではなくて、そういうふうにさせられてきた、押し付けられてきた構造の問題なのだと。声を上げてもいいのだという感覚を取り戻す。さらにそれを要求や交渉という形で突き出していく。やってみてうまくいかない場合もあれば、要求が思いがけず通ってしまうという経験もある。
そうした経験を交流するところから全労連のレバカレは始めているのだと思います。
こうした志向の取り組みは、とりわけ連合傘下の民間大単産などではまったく手がついていない領域です。むしろこれは、資本の側が1960年代から小集団活動として進めてきたことです。それを労働組合の側が取り戻そうというのが、いま、全労連がやろうとしていることだと思います。ですから、レバカレの取り組みはまさしく主体形成の課題に取り組んでいるのだと評価することが大事ではないか。そこを押さえないと、労働組合運動全体の展望も見えてこないと思っています。
藤原 お二人の話を整理すると、現場の労働者一人ひとりが声を出し、課題を解決していく具体的なプロセス抜きには、主体の形成はあり得ないということですね。
須田さんが言われた「外からの注入」も、現場の不満を構造的に理解するための「武器」としての思想だととらえれば、吉良さんが言われた「草の根からの積み上げ」と地続きの話になるのだと思います。
須田 まずは現場で「仲間を見つける」、そして「仲間になる」という実感がすべての土台だと思います。
藤原 逆に言えば、今の労働現場は、そういった「同僚意識」まで解体されているということですよね。「同僚意識」を生産性向上運動に回収することすら難しくなって資本としても焦っている。
実際、経営コンサルの主眼もそこにあるようです。わたしは仕事柄、高校生の進路指導をしていますが、企業の人事担当者が口を揃えるのは「コミュニケーション能力」と「主体性」の欠如です。要するに労働者が主体的に働かず、コミュニケーションも取れない状況には、資本の側も困っているわけです。労働現場や組合、どこの運動でも同じ課題が転がっています。
須田さんが指摘されたのは、それらを取り戻すにしても「階級的な視点」を入れなければ、結局は資本の側に回収されてしまうということですよね。それが現在の解体状況、ひいては日本の労働者階級の「総敗北」とも言える状況を招いている。だからこそ、あえて社会主義という旗印を掲げなければ議論が本質に向かわないという問題意識なのだと受け止めました。お二人の主張は階級的な視点が大事だという認識は共通していますが、現場から組織を再構築していくプロセスで、具体的にどの時点で、どうやってその視点を入れていくべきか。
前回の座談会でも掲載はしなかったが労働運動再生について論じました。そのなかで、国労の現場協議制や学校の職員会議といった「労働者の自律的な場」が解体されていくことに対し、労働者側が無自覚すぎたのではないかという指摘がありました。むしろ資本の側が、その破壊を目標に計画的に攻撃を仕掛けてきたのではないかという見方もあります。このあたり、吉良さんはどうお考えですか。
吉良 わたしは横浜市従という労働組合で活動をしています。組合活動のスタイルについてですが、職場での対話や学習会のあり方自体を見直しています。単に講師の話を座って聞くだけで終わるのではなく、たとえば講師の話を聞いたあと、6人から9人ぐらいの小グループで話をする場を設ける。こうした学習スタイルに変えていくこと自体に意識的に取り組んでいます。
須田さんが所属される東部労組と少し違うのは、うちは市役所なので、地方公務員法の「職員団体」という枠が厳然としてあります。実際の組織率は2割程度まで落ちている現状ですが、職員全員が組織対象です。組合に加入してくれた仲間は、別に「左翼」でもなければ、普段「社会主義」を考えているわけでもありません。現状は、たとえば職場でベネズエラの話が出ることもありません。
そういうなかで懇談や対話を通じて何について話すのか。まずは職場の現実です。そこから社会的な課題へとつなぐ役割は、たとえば組合の機関紙などが担っていく。現状は、そういう形を追求していると考えています。先ほどの話は「党と大衆運動」の話でもあるわけですが、労働組合、労働現場には党員であったり、〈思想運動〉の会員であったりする人間が実際にいるわけですね。そこでの振る舞い方自体に、すでに目的意識性はあると思っていて、特定の段階で「思想を持ち込む」という話ではないと思います。
藤原 いまの吉良さんのお話に関連して、レイバーノーツの記述を思い出しました。「話し合いの場で、活動家は自分の発言が単なるアドバイスを超えた影響力を持つことを自覚し、自省する。その上で、最終的には個別の問題が資本主義というシステムから生じていること、そして自分たちには世界を変革する力があるのだという確信にまで到達させる」という趣旨のことが書かれています。庄子さん、ご意見をお願いします。
組合員本人の「発意」に根ざした運動を
庄子 以前「労働組合が『御用聞き』になってはいけない」と言われました。活動家が代行して解決するのではなく、当該の組合員の発意と熱意を尊重し、ともに当局に訴えてこそ物事は実現する。そうした関係性が大事です。そういう土台がないまま上から方針だけを押し付けても、現場にはさっぱり響きません。
最近の具体的な例で言うと、60歳以降の再雇用の問題があります。「再雇用」という言い方も妙ですが、働き続けるにあたって一度ガクンと立場を落とされるわけです。
ある仲間が最初「組合で問題にしてくれ」と言ってきたのですが、よく話を聞くと、そもそも「再雇用を希望します」という書類を書くこと自体が苦痛なのだと。長年働いてきて、ある日突然「半人前」扱いされ賃金も下げられる。そんな理不尽が嫌だという、切実な感覚から議論が始まりました。それで「よし、いっしょに会社に言いに行こう」と立ち上がったんです。
結果的に「再雇用を希望します」という書類は出さず、呼び方も「雇用継続」に改めようと、本人から伝えてもらいました。いまトラック業界は深刻な人手不足だから、会社側とも「65歳定年制の実現は喫緊の課題だ」という具体的な議論ができたのです。
こうした、単なる「御用聞き」ではない、本人の発意にもとづいた交渉ができる関係をいかに作るかが重要です。これは誰もが長く安心して働ける、差別のない平等な職場づくりへの突破口になると思います。大切なのは、本人の思いを丁寧に受けとめ、いかに「いっしょになって取り組むか」です。お互いに実感を持てるこうした関係性を、いまの労働組合は失っています。組合が元気がないと言われる一因も、役職に就くことが単なるステータスや形式的なスタイルになってしまっている点にある気がします。
ですが、われわれの現場では時折、いま話した「原石」のような主体性が芽生えることがあります。そうした小さな兆しを、いかに大事に育てていけるか。そこが鍵だと思っています。
もう一ついいですか。イスラエルの話も出ましたが、いまの日本はあの国に相当似てきていると感じます。侵略や虐殺、迫害を平然と眺め、笑って済ませてしまうような感覚。わたしたちがどこかでストップをかけなければいけないのに、それができないでいる。
それをするのが本来の労働組合であり、社会正義を訴える政党の役割のはずです。
それをやらなければ、やはり労働組合はいずれなくなってしまうでしょう。連合型の組合のなかにも頑張っている人はいますが、大切なのは、個人の発意と熱を持って社会に向き合うことです。
「こんな社会でいいのか」という問いに、お互いに「嫌だ」という感覚を共有し、しっかり対抗していく。それを避けていては先がありません。
藤原 庄子さんが「日本がイスラエルに似てきている」と言われましたが、わたしも同じことを感じています。ただ、夏のHOWSの講座で林裕哲さんは「いや、イスラエルが日本を真似したんだ」とおっしゃっていて、確かにそうかもしれないなと思います。
それから、庄子さんの言われた「発意」の話ですが、わたしも同じことを感じています。いまは執行部にいますが、現場にいた頃は、同僚に何か問題が起きたとき、その課題に寄り添い、本人の発意にもとづいて「これは不当だ」という認識を全体で共有することができた。しかし執行部にいるとそうした向き合い方が難しいと感じる。「規則はこうです」「ルールではこうなっています」「その範囲内ならこうできます」といった対応に終始してしまう。
実は、いまの再雇用の話と同じようなことがありました。学校現場で再任用制度が始まるとき、「あんな形での再任用は嫌だ、もう辞める」と言って退職した組合員がいたそうです。他の組合員には、そういう組合員がいたことは元より、その組合員の立場にたった運動が提起されたこともなかった。個人的課題とされ、運動の側も、どんどん官僚的になっていく。現場に根ざした形で運動を作っていかないと、執行部と組合員がさらに乖離していく。いまのやりとりを聞きながら、そのメカニズムを思い出しました。
庄子さんの例で言えば、資本や行政の側は常に「再雇用させてあげる」という上から目線の形式にこだわります。辞令交付式も含め、「跪け」と言わんばかりの、労働者としての尊厳を剥奪するやり方です。それに対する「そんなことできるか!」という抵抗意識に「正当性」を与えるのは、やはり「自分たちは労働者であり、この社会を支えている階級なんだ」という自負に根ざすべきだと思うのですが、そのあたり、須田さんはどう考えられますか。
須田 まさにそこなんですよ。吉良さんが言われていたことも、ぼくらの考えも同じです。職場で不当な目に遭ったとき、労働者が「おかしいじゃないか」とみずからの発意と熱を持って声を上げ、叫ぶことができるか。
ぼくは、その営みと「社会主義」というものは、けっして別物ではなく一体のものだと思っています。職場の問題を解決していった先にいつか社会主義に到達するというよりは、労働運動そのものが、資本家と労働者の「搾取の最前線」にあるわけです。
労働者階級というのは、いまお話に出たような「尊厳を傷つけられる場面」を通じて、資本主義の矛盾をもっともダイレクトに突きつけられる存在です。そのなかで、いかにして一人ひとりが声を上げられるようにしていくか。そこが重要なのだと思います。
だとすれば、ぼくらは労働者の解放をいっしょにやっていく運動をしているわけですから、「どの段階で社会主義を語るか」ではなく、最初から言えばいいんじゃないかと思うんです。社会主義は、修行を積んだ人しか解読できないような、密教のようなものではありません。現場で搾取されている労働者自身が、この資本の桎梏をいかに打ち砕くかを日々体得していく、その切実な声そのものだと思うんですよね。ただ、「社会主義」という言葉があまりにも偏見や先入観、手垢にまみれてしまっている。だから、わたし自身もそれを迂回したいという気持ちがずっとあって、あえて言葉に出してこなかった。今はそれを反省しています。
さっきのNHKの番組では、労働者はレーニンやスターリンのかわいそうな犠牲者として扱われている。でも現実はそうじゃなかったはずです。労働者自身が「パンと平和と土地」を求め、このままでは生きていけない、自分たちが主人公になる世の中を作ろうとした、きわめて自発的で自覚的な運動だったはずです。
ジョン‐リードの『世界を揺るがした10日間』のなかに、ボリシェヴィキ支持の兵士が学生たちに囲まれるシーンがあります。その兵士はもともと労働者や農民の出身です。学生から「無知な連中に何ができる」と馬鹿にされたとき、かれは「俺たちに学はないが、この世には搾取する側とされる側の二つの階級があることぐらいはわかる」と堂々と反論しました。
あのように、労働者や農民、人民の一人ひとりが主体にならない限り、労働運動も社会主義運動も成り立たないと思うのです。党という存在は必要だとは考えていますが、いま、吉良さんや庄子さんが言われたことと、ぼくの考えはまったく矛盾していないと感じています。
藤原 土松さんは長く韓国の労働運動や在日朝鮮人への抑圧の問題に取り組んできましたが、これまで話を聞いて、どう思われますか。
そこに行けば安心していられる〝場〟に
土松 一つは、視界を広げる必要性です。1980年代後半までは在日朝鮮人・韓国人の人びとが外国籍住民の多数を占めていましたが、今や外国籍住民は400万近い規模になり、構成も多様化しています。かれらの多くはやはり「労働者」なんです。そうした人びとを視野に含めて活動を広げることが今後の労働運動を考える上で大切だと思っています。
そこで、先ほど話題に出たレバカレのことですが、あそこでは3日間にわたって、いくつかの分科会を設けて議論が行なわれました。『思想運動』に、この分科会を成り立たせるための「グラウンドルール」のことが紹介されています。
内容は、ある意味では常識的なことで、分科会に参加するにあたって、特定の思想や信条によって人を排除したり、差別したりはしない、といったことですね。人に対して「さん」づけで呼びましょうとか、そういった当たり前のことが書かれています。この「グラウンドルール」の由来ですが、韓国の民主労総(全国民主労働組合総連盟)が運動を作っていく過程で生まれたものだというのですね。民主労総も当初は大企業の男性正規労働者が中心となって発足しました。そこから非正規職や移民労働者へと組織を拡大していく過程で、内部の会合を持つにあたって「こうしたルールが必要だ」として出されてきた。
それを全労連の国際局の方が韓国へ行った際に知り「日本でもやってみよう」と輸入する形でレバカレの会議のルールとなった、という経緯のようです。
なるほど、そういう経緯だったのかと思ったのですけれども、それを聞いて思い出したのは、昔のぼくらは、たとえば国労や全逓といった労働組合に絶大な信頼を置いていたし、そこに行けば安心していられたという感覚があった。
「国労大国主義」なんて批判的に言われることもありましたけれど、それでも、あの闘う現場に行けば自分が自分として安心していられる。そういう場所が、かつては確かにあったと思うのですよ。
ぼくも学生の頃に国労の闘いに参加したし、東京に出てきてからも分割・民営化反対闘争などで地方の現場や国労本部へ取材に行ったりもしました。やはりそういうところは居心地がいいというか。
それで、昨年の民主労総が中心となって闘った尹錫悦政権退陣闘争のなかでも─これは新聞でも紹介しましたけれど─韓国社会で「いないこと」にされてきたマイノリティの人たち、たとえば精神的にトラウマを抱えている青年やLGBTQ(性的マイノリティ)の人たち、あるいは移民労働者といった、これまで公に発言できなかった人たちが、民主労総の広場に参加し次々と発言したわけです。最後に「トゥジェン(闘争)」で結ぶ。その言葉が立場を超えてみんなに共有されるような、ある種の社会的な空間を一時期は作り上げました。
その後、運動がどうなっているのかは詳しく追えていないけれど、やはり労働運動、労働組合というのは、社会的に虐げられたり「いないこと」にされていたりする人たちが、その場に行けば安心していられる、そういう組織であってほしいなといま思います。
ただ、尹錫悦政権の退陣を勝ち取ったとはいえ、今の李在明政権の動きをどう見るかですよね。かつての民主労総の委員長だった人が労働部の長官に起用されたりして、社会の形が少しずつ変わってきているように見えます。
しかし、それが果たして社会全体の根本的な改革や、それこそ国家保安法の撤廃といった核心的な部分まで繋がっていくのか。そこはやはり、制度の上の話だけではなく、人民自身の闘いにかかっているものだと思いますけれど…。
それで、わたしが言いたかったのは、今日議論されている「労働現場で下から、ああでもない、こうでもないと言い合いながら主体を作っていく」というあの話と繋がることなんです。『世界を揺るがした10日間』に出てくるあの対話のような光景は、去年の民主労総の闘いのなかに、確かにあったと思うんです。
藤原 土松さんがおっしゃる「やりとり」について、須田さんが強調されていたのはこういう点だったと思うのです。
つまり、社会の最前線にいる労働者は、理屈をこねるインテリがどうしても超えられない壁を、ヒョイと超えてしまう力を持っている。階級とは何か、社会主義とは何かという本質を、実体験から掴み取っているんだと。
須田さんが先ほど、NHKの「映像の世紀」をみんなで見ながら学習会をしたとおっしゃっていましたよね。そのとき、参加者からどういう反応があったのか、もう少し詳しく聞いてみたいのですが。須田さんがさっき言われたように、「自分たちの力で社会を根本から作り変えるんだ」というような、いわば社会主義的な視点にまで踏み込んだ意見は出たのでしょうか。
それから、東部労組の大会の資料で読みましたが、須田さんが静岡の大学で若い学生相手に労働運動の講義をされた際、かなりの反応があったそうですね。これからの世のなかを担っていく若者たちから具体的にどういう声が上がったのか、ぜひ伺いたいです。
須田 そうですね。まず一つ目の「学習会での反応」ですが、やはりNHKの番組がスターリンの独裁や粛清といった側面を強調して描いていたこともあって、ストレートな反応が多かったです。「どんなに良い理想を掲げてもこんな恐怖政治はやっちゃいけないね」とか「わたしたちが目指す社会主義って、結局これなんですか?」といった素朴な疑問が出されました。もちろんわたしも、当時はヒトラーや帝国主義諸国の包囲といった困難な情勢があり、そのなかでの党内闘争だった……といった背景を、十分とは言えませんが説明しました。
ただ最終的な結論としては、マスコミが流すマイナスのイメージを「自分たちには関係ない、他人事だ」と切り捨てて済ませるのはやめよう、という話をしました。
負の歴史でも自分たちの問題として引き受けそれを教訓に変えながら、新しい社会主義をみんなで模索していこう。そうやって昨日は「これからも社会主義を公然と掲げ続けていくかどうか、もう一度じっくり議論しよう」という締めくくりになったんです。
それから静岡の大学の話ですが、これは「キャリアデザイン」という授業なのです。担当の先生がなかなかユニークな方で「何でも好きに話していいですよ」と言われたので、ぼくら東部労組のストライキや団体交渉の生々しい映像を見せ学生たちがどう反応するか試してみたのです。
後日、先生が学生たちのアンケートをすべて送ってくださったのですが、これが予想以上に興味深くて。驚いたことに、8割くらいが「すごい」とか「自分もやってみたい」「感動した」というポジティブな反応でした。あまりに好意的だったので、「ぼくへのリップサービスじゃないですか?」と先生に聞いたら、「いや、これは匿名アンケートだからだれが書いたかわからない。かれらの本当の気持ちですよ」と言うんですね。
中西新太郎さんも『思想運動』の連載で書かれていますが、いまの若者は新自由主義のなかでずっと傷つけられてきた世代です。ぼくらより上の世代は、どうしても「もっとソフトなイメージにしないとかれらは逃げてしまう」とか「政治的な課題をぶつけるとハードルが高くなる」と、気を遣いすぎてしまう。
でも実は、そうじゃないんじゃないか。バイト先で理不尽な目に遭ったり、苦しむ親や先輩たちの姿を見たりするなかで、かれらは「自分たちも声を上げたい、叫びを上げたい」と切実に思っている。そこには間違いない熱量があると思います。運動の形成や再生、強化を考える上での大きなヒントが、ここにあるような気がしています。
藤原 ぼくにもその実感はあります。いまの若い世代は「声を上げない」「横並びで周囲の目を気にしている」というイメージがあるかもしれませんが、実は内面では強い物足りなさを感じているのではないでしょうか。
たとえばネット上で、既得権益をバッサリ叩いて言いたいことを言っている人物に、若者が憧れを抱く現象がありますよね。「自分もやってみたいけれど、現実にはできない」という欲求の裏返しです。また、「推し活」に情熱を燃やしたり、惜しみなくお金を使ったりするあのエネルギーを見ていると、そこにはわたしたち日本の労働者階級の運動が、引き出せていない可能性があると見ています。だからこそ、われわれも「これだ」という方向性を明確に提示していく。そういう試みがいま、必要なのだと思います。
さて、話は尽きませんが、このあたりで一度、区切りとさせていただきます。
| (『思想運動』1121号 2026年2月1日号) |