「安倍教育改革」といかに闘うか
われわれ自身の思想の再点検から始めよう
 

教育への国家統制強める安倍政権
一昨年12月に成立した安倍政権は、翌1月、内閣に「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため」として、教育再生実行会議を設置した。首相に官房長官と文部科学大臣そして有識者と称する安倍の「お友達」(曽野綾子、八木秀次ら15名)からなる人々の集まりである。そして、この4月までの一年余りの間に20回の会議を開き、昨年2月のいじめ問題への対策を初め4回の提言を出している。この提言を元に法制化しているのが、昨年9月の「いじめ防止対策推進法」であり、この4月4日閣議決定した地方教育行政の組織及び運営に関する法律改正案である。さらに安倍の教育「改革」は、これにとどまらない。1月には教科書検定基準の改定と称して政府見解を教科書に書き込ませることとした。道徳の教科化と評価の導入の動きも加速している。土曜授業を可能にする学校教育法施行規則の改定。国家戦略特区法(12月)によって公立学校の民営が可能とされた。高校授業料無償制度の廃止を強行実施(4月から)。高校での到達度テストという学力テストの導入の検討。大学入試制度の改革等々、数え上げたらきりがない。
さてこの4月2日には私立学校法の改正案が成立し、即日施行された。これで私立学校にまで、強制立ち入り検査ができることとなった。朝鮮学校関係者は所轄庁(各種学校を認可監督する都道府県)の教育内容への介入を危惧している。教育委員会制度改革により首長による教育統制と併せて、学校教育を全面的に国家による統制下におこうとしていることは明らかである。もちろんこれ以外も憲法違反の施策ばかりであるが、憲法の解釈権は自分(首相・内閣)にあると言い、立憲主義を否定する安倍は「違憲だ」と言われても何の痛痒も感じない。
国家の主導により日本の若者を「国際マーケットでの競争戦に勝ち抜き」「世界の舞台で活躍できるようにする」(昨年6月閣議決定『日本再興戦略』)というのである。自民党の教育再生実行本部の昨年4月に出した提言は「成長戦略に資するグローバル人材育成部会」による「経済再生には、人材養成が不可欠」という立場でなされたものである。同じことを日本経団連は昨年6月「グローバル人材の育成に向けたフォローアップ提言」と今年4月の「次代を担う人材育成に向けて求められる教育改革」で言っている。

資本の要求をストレートに反映
「グローバル人材」の育成=資本の国際競争戦に勝ち抜ける人材の育成こそが急務であると言うことで見事に一致している。当たり前とも言えるが、こんなに明け透けでストレートに企業(資本)の要求が教育政策化されるとは。従来は文部科学省が中央教育審議会の答申を受けて政策化するという中立性の装いを凝らしていたものである。
この性急さは何なぜか。安倍政権の民主的手続きを無視破壊するクーデタ政権的性格。立憲政治の無知ないしは無知を装っての憲法破壊。
それはかれらの深い危機意識からきている。安倍にそんな深い認識がないとしても、かれを政権に就けている独占資本(支配階級)の危機認識の深さから来ている(資本主義の危機はそれほど深い)。
軍事力強化=秘密保護法体制は、戦争のできる国づくりといわれるがそれはとりもなお
さず、人民に向けられた軍事力である。海外で戦争ができるためには、国内反対派を思想的にそして強権的に押さえつけることができなければならない。この面の指摘があまりなされていない。
まして、われわれ労働者人民が「景気の回復」「不況の克服」「デフレからの脱却」などの言葉にうなずき、自分の子どもを良い学校に入れ、良い大学から大企業に就職させたいという考えを持っているとしたら、まさに支配的イデオロギー、すなわち支配階級のイデオロギーに屈服しているのである。人間を資本にとっての資源視する「人材」イデオロギーを共有したままで政府の教育改革に真に対抗する運動ができるわけがない。
人民の教育権を根こそぎ奪い、労働者・人民を資本に奉仕する「人材」にする攻撃(もちろん今はじめて出てきたわけではない)の総仕上げがこの安倍「教育再生」である。それは、人間が競争の結果勝てば資本に奉仕して利益の分け前に与かる資本家となり、負ければ搾取という奉仕をする賃金奴隷になることを疑わない社会の完成である(いや、もうすでにでき上がっていると言うのが正しいのかもしれない)。これはとても人間が人間らしく生きることの許されない社会である。
このように教育問題とは決して子どもと教師の問題ではない。全人民の課題として、資本主義国家から〈教育〉を取り戻す闘いでなければならない。その自覚のもとにわれわれ労働者人民の解放運動の戦略戦術にどう位置づけるかを考えなければならないのである。ここでは、それを考える手がかりを上げておくことしかできない。

権利は不断にたたかいとるもの
武井昭夫に「教育を受ける権利」(『創造としての革命』所収)という中学生を読者に想定した一九七五年執筆の一文がある。そこでは平易な言葉で日本国憲法の教育を受ける権利がいかなる歴史的背景で規定されたかを語り、教育が人間の人格形成にどのように係わるか、階級抑圧からの人間解放のたたかいへの深い洞察に満ちた認識が述べられている。
「『狭き門』となった公立高校をめざしての『受験競争』のエスカレートがそれである。
この競争では友人が敵になり、勉強がその武器になりかねない。弱肉強食という自然界の法則が人間をより人間たらしめるための教育の世界に出現しかねない。友人を蹴落とす、つまり、おかすべからざる他人の権利をおかさなければ自分の権利が守れない――こんな状況のもとでは、勉強は楽しみではなく、苦役になってしまう。」(同書454頁)
これを読むと、80年代以降の学校の荒廃現象である校内暴力・いじめ・学級崩壊等々の起こる根源について指摘していることに気づかされる。
武井はこれに続けてブレヒトの詩「学ぶことをたたえる」を紹介して次のように言う。
「ここで注意してほしいのは、ねぐらのない人に『住居』ではなく『学校』を、こごえる者に『きもの』でなく『知識』を、飢えたる人にパンでなく『本』を、とよびかけていることだ。衣食住などどうでもよいとブレヒトは言いたいのではない。人間がほんとうに平等で自由に人間らしく誇りをもって生きられる世の中にするためには、労働者は住宅や食物だけではなく、同じく奪われている『知識』をとりもどさねばならないということを、訴えたかったのである。」
この「奪われた『知識』」とは、何か。この前の箇所に引用されている手紙を書いた識字学級で七〇歳になって初めて文字を覚えた北代色さんにとっては、もちろん文字そのものである。だが、武井がこの後に続けて書いているのは、〈権利は不断にたたかいとらねばならない〉〈ほんとうの知識はたたかいの中でこそ見つかる〉という真理である。中学生に向かって〈闘っていくことからほんとうの勉強が始まる〉と説いているのである。 【二瓶一夫】

(『思想運動』936号 2014年5月15日付)