〝老後破産〞か生存権の保障か
人間として生きるために憲法25条はある 
            

 「老人漂流社会“老後破産”の現実」(9月28日放映)というNHKスペシャルを、これは他人事ではない、と思って見た。わたしは、田舎に独居の老親がおり、心配もしているが、自分自身にとっても、子どももなく資産もない、年金頼みの独り暮らしの老後は、目前にさし迫った切実な問題だ。つい最近も自分の働いている事業所の加入している厚生年金基金が解散を決めたことを知り愕然としているところだ。
 NHKスペシャルの取材にあったように、医療費や介護保険の自己負担分を払うのに年金が足りず、医者にかかれないとか、買い物・炊事・洗濯・外出介護などの依頼も極力控えなくてはならない、という事態になるかもしれない。
 番組では、厚生年金加入者だが、月10万円ほどの受給額で、その大半が家賃の支払いに消えてしまい、食費を切りつめても、電気代が払えず止められた例もあった。また、国民年金の場合は、満額でも生活保護受給額より低いので生活保護を同時受給しないと暮らしていくのが極めて困難で、生活保護世帯の約半数を65歳以上が占めている。

誰もがおちいる生活困窮

 しばらく前、お笑い芸人の親が生活保護を受けていたことを発端に、生活保護バッシングがマスコミやインターネット上で盛んにおこなわれ、働いても生活保護より収入の少ない「ワーキングプア」層などからの不満や、苦労して収めてもらえる国民年金より楽してもらえる生活保護受給額の方が多いのはおかしい、などといった、誤解によって問題を逆転させた批判も多かった。国民年金が少ないのは、もともと自営業者などが加入する年金として、老後も自営業収入を得ながら年金をもらって生活を安定させる目的で始まり、国民年金だけで暮らすということは想定されていなかったからだ。
 その後、低成長の時代になり不況が長引くと、自営業収入の激減や、跡取りもなく廃業したりで、国民年金だけに頼らざるを得ない状況が激増している。あるいは、失業者が定職につくことができないで国民年金に加入したりしても、少ない年金額のみで生活をせざるを得ないケースも多い。まじめに働いて得られる賃金よりも、働かないで受け取れる生活保護による収入の方が多いのは不公平だと感じているパートや派遣などの非正規労働者は、企業がいつでも切れる低コストの労働力として、社会保険に加入させてもらえない場合も多く、失業すればすぐ生活に困窮してしまう。
 よく知られた例だが、派遣切りなどでコストを下げたトヨタは、3月決算で過去最高益(営業利益約2兆円)を上げている。その最高益に貢献させられた挙句に切り捨てられた労働者の老後はどうなるのだろう。自己責任で倹約して真面目に保険料を納付してきたのだからと、貯金がなくても生活保護を受けなければ、月6万円程度の国民年金だけを頼りに、医者にもかかれなかったり、水道光熱費滞納などライフラインがギリギリのところで生きていかなければならないことになるのではないか。

生存権と生活保護

 2004年以降、生活保護費の老齢加算が段階的に減額・廃止されたが、これに対して、生存権を保障する憲法二五条に反するとして減額決定の取り消しを求めていた裁判で原告側は敗訴した。また、生活保護費の削減が昨年八月から始まっており、段階的に最高10%減額されることになった。これについても各地で、憲法25条生存権の侵害として「生存権裁判」が起こされている。10月6日、最高裁は、福岡と京都の原告団の請求を棄却する不当判決を出した。
 わたしは、昔、学校の社会科の教科書で、「朝日訴訟」と言われる裁判があったことを習った記憶がある。最近若い人に聞いたら、自分が使った教科書にはなかったと言っていた。「生存権裁判」の原型ともなったこの裁判は、1957年に、結核療養中の朝日茂氏が、日本国憲法第25条に規定する生存権と生活保護法の内容について争ったもので、一審で勝訴したが、二審では請求を棄却され、上告審の途中で朝日さんは亡くなった。しかし、朝日さんが始めた闘いは、多くの市民・労働者に支援・共闘の輪が広がり、その後の生活保護水準の引き上げにつながった。
 生活保護批判を率先して行なった片山さつき氏は、「生活保護とは生きるか死ぬかの人がもらうもの」という趣旨の発言をしているが、25条のいう生存権とは、ただ生物として生存する権利ではもちろんなく、「人間として」生存する権利だ。半世紀以上前、そのために闘った朝日さんの記念碑には「人間裁判」という文字と憲法が書かれているそうだ。
 生活保護水準は、最低賃金や住民税非課税限度額の算定、就学援助など多くの生活支援制度の目安になっている。生活保護VS最低賃金、ではない。朝日訴訟をはじめ、生存権裁判において、25条は、プログラム規定(国の努力目標・方針を定めたにすぎない)ないしは抽象的権利であるとする解釈が前提となっているので、25条の生存権を、具体的権利として獲得しなければ現実に生かしきることはできない。
 アベノミクスによる「景気回復」の恩恵は、大企業や富裕層だけで、労働者の実質賃金は低下が続いている。その中で消費税増税が断行され、また来年さらに税率の引き上げが予定されている。消費税は、生存ぎりぎりの生活費からも税金を取るもので承服できないし、格差を拡大する点で、社会保障の財源だという言い訳に矛盾がある。
 現代社会においてさまざまな問題が生存を脅かしている。原発事故、TPP参加による農業・食物への不安、企業が生産拠点の海外移転を拡大する中で生存のための生産や雇用確保の問題等々。それは、それらの現場で、そこで働いている労働者が日々当面している問題でもある。

闘ってこそ未来がある

被爆しない環境、危険な添加物など心配のない食物、経済的な理由であきらめなくてもいい教育など、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」である25条生存権と、27・28条などの労働基本権を、「生存権的基本権」と呼ぶ。それは、生存を、野生における弱肉強食のサバイバルとしてではなく、人間社会において労働によって平和的に営まれるものだととらえられる。生存権を保障させる闘いには、労働三権(団結権、団体交渉権、争議権)を使った闘いが不可欠だ。【田口ケイ】

(思想運動 946号 2014年11月1日号)