敗戦後、沖縄における反戦平和思想
映画『沖縄 うりずんの雨』を手がかりとして
   
佐々木辰夫(アジア近現代史研究)

 映画『沖縄 うりずんの雨』(ジャン‐ユンカーマン監督)は、いわゆる沖縄問題を考えるうえで、好適な素材を提供している。このドキュメンタリーの特徴は、わたしのみるところでは二つある。
 その一つは、1853年(安政5年)、マシュー‐ペリーのひきいる米国東インド艦隊が太平洋を西へ航海し、琉球に到着し、那覇に強引に上陸し、それ以来合衆国は、琉球・沖縄に軍事的関心をもちつづけているというスタンスをとっていること。以来170年間に米軍人による戦闘行為とともに女性への性暴力事件がひっきりなしに続けられてきたことも、その随伴現象として映像化されている。米兵による性暴力事件については後述する。もう一つの特徴は、沖縄戦にかかわった人びと、主として沖縄県民、元日本兵、戦争の語り部、元米兵、米国国立公文書館所蔵の未公開フィルムなどの記憶証言、現場検証、体験談、生々しい映像・音声がふんだんに活用されているということである。現在の問題に連続する敗戦後70年間の、米軍政下を含む諸々の事件を重点的にとりあげていることも、この作品が刺戟的である証左である。2時間28分の上映で観客を退屈させることなく、エンディング・マークとともに拍手の音があがった。しかしわたしはユンカーマン監督の「沖縄」のとらえかたに釈然としない部分があったといわざるをえない。そのことを以下で問いたい。
 ペリー提督を指揮官とする米国東インド艦隊の琉球来航は、大統領フィルモアの命をうけて「徳川幕府に開国を迫るための拠点」にするべく、琉球王国の意向を無視して強引に上陸した。「この時すでにペリーは東アジア進出のための足がかりとして琉球国、現在の沖縄を占領することを計画していました」とナレーションを入れている。総じてその説明はまちがっていない。しかしアクセントのおき方として「徳川幕府に開国を迫ること」と「東アジア進出のための足がかりの那覇上陸」とを一体のものたらしめるには、那覇と浦賀港停泊日数よりもはるかに多くの日数を中国沿岸の測量にあてていたことを語るべきであっただろう。
 なぜ東アジア進出であるのか。1840年からはじまる清と英国とのアヘン戦争を米国を含む列強諸国は固唾をのんでみていた。アジアへの侵略で出遅れていた合衆国は、中国への進出を特別の命題としていたのである。

米帝国主義の中国市場への野心

 ペリー来航以後米国資本主義の発展とともに米国が中国を中心とするアジア大陸へどのようにかかわったのかということをふりかえっておこう。米国は1898年(明治31年)、米西戦争によってスペインからフィリピンを領有した。しかし極東の戦略をめぐって日本と米国とのあいだにはきびしい対立が存在していた。そこで1905年(明治38年)、桂首相と米国陸軍長官タフトとのあいだにある覚書がかわされた。それは日本の大韓国(朝鮮)にたいする優先・支配権と米国のフィリピンにたいする優先・支配権の相互尊重を表明する、というものであった。これがいわゆる桂・タフト秘密協定である。アジア市場獲得をめぐって鎬を削っていたときの、いわば国際密約である。
 しかし合衆国はフィリピン領有を本当の目的にしていたのか。これまでもいってきたことであるが、米国軍人でフィリピン戦、沖縄戦に従軍した共産党員ウィリアム‐ポメロイ(映画『教えられなかった戦争・フィリピン編』登場)は、戦闘記録員として参戦し、その体験を含めて多くの著書をのこしている。かれは著作のなかで合衆国のフィリピン領有はそれが目的でなく、手段であり、ルソン島は中国大陸へ進出するためのスプリング・ボードであったと書いている。米国がその群島内に20か所以上の軍事基地を設置していたのがその理由である。フィリピンの国土面積は、日本のそれの約75パーセントであるから、反乱軍(民族解放軍)鎮圧目的としても多すぎる。
 また1930年代になると、日中戦争期間中にもかかわらず米国政府は、日中両政府に「中国の門戸開放、中国沿岸部における航行自由、内陸部河川への遡行の自由」などを要求し、実際に米国船籍は揚子江を遡上していた(尾崎秀実の記録)。もし中国の船舶がミシシッピ川を遡行すると、ヤンキーたちは騒然とするだろう。さらに米・英が「援蒋ルート」をつくっていたことは周知のとおりである。
 世界恐慌を経験していたルーズベルトとチャーチルの合意した、「大西洋憲章」(1941年8月)で、領土不拡大(敵国領土不所有)が規定されていたにもかかわらずトルーマンは、沖縄を軍事植民地とする政策に転換した。かたやボロボロになっていた国民党をトルーマン、アイゼンハウアーらはケアしつづけた。沖縄基地は、対中国反共の拠点として朝鮮戦争、ベトナム戦争などで過分の貢献をした。ユンカーマン氏のアメリカの沖縄へのかかわりの後づけは、皮相であるといわざるをえない。

米兵による性暴力事件をめぐって

 1995年9月におこった、いわゆる3人の米兵による少女暴行事件の加害者が画面に登場する。かれら3人は本国で7年の刑に服した。沖縄で米軍人・軍属および家族による性暴力を含む刑事事件の加害者の大部分は、本国に移送されてのち無罪放免されるケースが多いときく。なぜこのようなことがおこるのかということは後述する。しかし右の事例では、そうはいかなかった。さすがに県民約10万人の抗議で、その加害者たちは法にのっとって刑事裁判にかけられ刑罰をうけた。1人は死亡しており、あと2人のうちの1人が取材に応じた。その加害者は画面ではいささか反省し、神に祈るともらしていた。高里鈴代さん(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」1995年発足、糸数慶子さんと共同代表 以下「女たちの会」と略)は、「加害者を登場させたことを、快く思わない被害者がいるかもわからない」と発言している(『朝日新聞』)。それはもっともなことであるとわたしは同感する。つまり加害当事者たちが事件現場で性暴力行為を実行する段どりを協議して、それからそれを実行するという、いわば当事者だけにしかわからない、具体的で一過性の行為のリアルさというもの、しかももっとも露出的な言いまわしでその暴力沙汰が語られているのだ。これを被害者がみるならば、どういう反応をするだろうか、想像できそうだ。被害者たちは数年、数十年前にわが身にふりかかった被害を、今ふたたびみせつけられれば、発作的に心的外傷後ストレス障害症状をひきおこしかねない、と思うこともできる。ここがこの映画の一つのポイントである。
 映画監督はもと加害者を登場させるとき、被害者の気持ちをどれだけおもんぱかったであろうか。監督はこのシーンにつづいて米軍隊内で男性兵士が女性兵士(※)に性暴力事件をおこしていることを紹介していた。なぜこのシーンをここに連続してもちだしてきたのか、疑問がわいてきたが、しばらく先へ進む。
 画面で数十人の性暴力被害女性兵士の運動体「女性兵士アクション・ネットワークSWAN」の活動について可視化している。わたしは原則として被害者が声をあげ、泣き寝入りしないことを是とし、むしろ賞賛する。それは自己の権利の被侵害にたいする闘争であるからだ。ある被害女性兵士は男性上官・加害者側から「昇進の機会を与えるからなにもなかったことにしてくれ」と告げられて、彼女はそれを拒否し、今も昇進しないまま兵務についているという。立派である。しかしこれは人権侵害事件を卑俗な取引の材料にしようとする例である。
 ユンカーマン氏は、米軍隊内の性暴力事件やSWANの映像の直後、普天間基地フェンスで、それに貼られたステッカーやテープなどをはがす女性兵士の情景を見せる。街を美しくするのだと語る。すでに映画の冒頭で、地元沖縄の女性がフェンスにリボンやステッカーを貼る基地撤去の意思表明の映像を紹介しているから、観客はその前提で、はがす行為が何を表明しているかは直ちにのみこめる。つまりそれは基地の温存、基地と住民居住区との共存の振る舞いである。フェンスにリボンを飾る行為(基地撤去のメッセージ)とそれをはがす行為(基地存続のメッセージ)という意見の多様性のごときレヴェルで扱う方法は、前記の米軍人の沖縄女性への性暴力事件と米軍隊内の女性兵士への事件との並列的な提出のしかたに通じるように思える。
 このような映像のつくり方に沖縄県民は納得するであろうか。かれらの米国や日本にたいするポジショナリティは、はっきりとちがうとわたしは思う。
 ※米軍隊における女性兵士徴募の背景。ベトナム戦争の事実上の敗北、反戦運動、厭戦感情の高揚等で男子徴兵義務制を廃止し、志願制とした。それでは兵員不足となる。当時女性中産階級層から女性解放運動、ウーマン・リブ(womanʼs lib)がおこなわれていて、それが女性兵士徴募を後押しした。

地位協定こそが事件頻発の原因

 沖縄では現在でも、年に数百件の米軍人による性暴力事件がおきているといわれている。げんにユンカーマン氏もAP通信情報をかりて同じ表現をしている。わたしはそこにその事件をより多く発生させようとする仕組みがあるのではないか、といいたい。それは日米地位協定の存在であり、復帰と同時に沖縄に適用された。復帰以前の問題は本稿では扱わない。
 同「協定17条 逮捕・身柄の引き渡し等の相互協力…被疑者の拘禁は、その者の身柄が米側の手中にあるときは、日本により公訴が提起されるまでの間、米側が引き続き(拘禁を)行なう。」
 右条文は、日本側に第一次裁判権を有する事件でも起訴開始されるまでの間は米側が引き続き拘禁を行なうということ。
 もっとくだいていえば、米兵が事件をおこしておいて、速やかに基地や演習キャンプに逃げ帰れば日本側官憲は、起訴の手筈を整えることができないのである。その間米側はその者を限りなく拘禁することはありえない。日本側に第一次裁判権があるにもかかわらず、事実上それが作動できない。つまり米国に治外法権的優先権がある。
 ついでにその他の刑事事件処理について一言ふれておこう。米兵の公務中の事件・事故と公務外のそれらとの区別があり、前者の場合には米側に第一次裁判権がある。たとえばある米兵が通勤途中(公務中)に交通事故をおこし日本人が被害者で死亡した場合、米側は加害者に微罪を科す。性犯罪事件をおこした米兵が基地に逃げて匿われているかぎり、その事件被害者はどうすることもできない。かりに彼女が日本の警察にこの件を告げて助けを求めたとする。するとポリスは「証拠をつけてください」というだろう。彼女は第三者を納得させる証拠を示せるであろうか。これは仮定の話である。ともかく被害女性には事実上告訴できない法的仕組もしくは法的瑕疵がある。だから結果として泣き寝入りする。このように言ったらどうだろう。加害者にはエスケープする条件と法的手段があり、被害者には告訴する手段が封じられ、法の抜け穴、あるいは性行為者にはけものの道のごときものがある。ニューカマーの兵士は軍隊内の先輩・上官からそのことを学習し、くりかえし訓練のごとく実施する…。これが年数百件もおこる性暴力事件のシステムであるといいたい。

基地・軍隊の廃絶をこそ

 行政協定の改正ないし撤廃のことを考えてみよう。協定改正の機会は、少なくとも一回はあった。それは1995年のいわゆる少女暴行事件抗議県民大会のとき、協定改正が一つの目的であった。その頃、また県で住民投票が実施され、協定改正の賛否を問い、賛成票が多数をしめた。日米当局者たちは協議はしたが改正の段階までにはいたらなかった。協定の撤廃についてはどうか。それは安保条約とセットになっているから「安保破棄」しないかぎり不可能である。
 沖縄では「安保が見える」といわれる。基地が目視できるだけでなく性暴力加害者を訴追できない壁にぶちあたるという体験で安保条約・行政協定の存在がわかる。この存在と仕組みがもたらす深刻な苦痛から県民は、沖縄が米国の植民地であるというのだ。
 ではどうするのか、基地・軍隊の存在を抹殺することである。イマヌエル‐カントの『永遠平和のために』でいうところの「常備軍の廃止」に通底する。話は横道にそれる。
 わたしは1980年代90年代、那覇で連続して開催された沖縄婦人運動史研究会の講座のまとめを何冊か手にした。
 (敗戦後、沖縄女性のたたかいは、他府県の、たとえば市川房枝から土井たか子の活動線上の運動のあづかり知らぬものであった。なにしろそれは、反戦平和と反封建遺制・家父長制との統一的な闘争であった。沖縄の婦人団体は復帰運動とともに右の反封建闘争をになっていた。)
 高里さんもその講座を担当していた。彼女は戦中の旧日本軍従軍慰安婦問題、敗戦後米兵たちの、復帰後の自衛隊員などの性暴力事件および市井の性奴隷制の研究の総合・体系化に道をつけてきた人である。
 (その高里講座をきいたある女性は、一週間精神に変調をきたしてしまったと語っている。つまり沖縄の女性が米兵や男性によって弄ばれ、暴力と金銭による籠絡によって散々なぶられ、生涯を棒にふってしまう話を水ももらさぬ語り口できかされるのだった。)
 高里さんや糸数さん(参議院議員)たちは、「女たちの会」をたちあげた。
 ユンカーマン氏は被害女性兵士は加害者にクレームをつけ、反性暴力事件運動があるではないかといわんばかりである。しかしそれでオールマイティーではない。性暴力事件をうけたという人権侵害、ひいては人格毀損の事実はけっして消滅することはない。人権はそんなに鴻毛のごときカルイものではなかろう。女性の性暴力被害事件をリトマス試験紙とする実験装置で任意の社会を測定するならば、それが平和であるか野蛮であるか一目瞭然とする。女性(Woman)が人らしく(like a decent person)あることがそのメルクマールである。基地・軍隊の存在を許さないとする思想は、まぎれもなくこの沖縄で女性たちの運動によって創造された。(『沖縄の女たち――女性の人権と基地・軍隊』 高里鈴代 明石書店 1996年 参考)

沖縄戦の理解のしかたに関して

 わたしは監督の映画づくりにもう一つ釈然としないことがある。それは沖縄戦のとらえ方である。監督はこの映画の英語名をThe Afterburn としている。ジ・アフターバーンとは、焼けつづく、あるいは凄惨な戦闘の深い傷がいえることなくつづくというようなニュアンスであり、戦闘The Battle の極大表現である。しかし本作品に登場する沖縄戦の従軍者、それにまきこまれた住民体験者たちの証言は、ことごとく戦争The war は、金輪際御免 もう沢山だNo more thank you any war と強い拒絶の意思、感情をあらわしているのである。この地球上のいかなるところにも、いかなるときであろうと、いかなる規模であろうと、そしていかなる名目であろうとも、戦争をおこしてはならないということである。この意思・感情にどれだけ深い理解と共感をするのかということが、敗戦後の人びとの必須の課題である。
 参考までに映像に登場する参戦者の体験談を一例だけ紹介しておこう。
 元日本軍兵長 近藤一氏 当時25歳
 監督 「こういう火(火炎放射器の炎=引用者註)が怖かったでしょう」
 近藤 「いやでしたね。ワーッと吹きつけると、50メートルから60メートルの距離があって、われわれの所では火が3メートルから4メートルに広がって、フーッと来ますから、吹かれた場合、ゴム状のものがべたべたついて、払っても払っても落ちないから衣類から何からみな焼けて。そこで倒れてしまう。で兵隊同士で“火炎放射器で死ぬことはご免こうむる”と鉄砲の弾か何かで死ぬのはなんでもないけれど火炎放射器は本当にひどい死に方だから“あれだけは御免こうむりたい”と兵隊同士で話していた。」
 火炎放射器の本格的使用は、沖縄戦からである。玉砕を覚悟していた兵たちが火炎放射器で戦死することを嫌悪する。乱暴な表現で顰蹙されるが人体が丸黒焦げになるのだ。天皇のための肉弾突撃・玉砕主義は論外として、火炎放射器による焼殺・焦土戦術は、殺害した敵兵や非戦闘員の身許まで不明にしてしまう。いいかえるならば米国産軍複合体はかれら個人のアイデンティティーを抹殺するという反人間的戦略をねっていたのである。この戦争はまったく人間の次元をこえていたと、わたしは思う。少数の例外者、たとえば「本土」へ逃げかえった高級将校、高位の県職員および学校の教師などをのぞいて従軍者、体験者さらに火炎放射器の操縦兵たちを含むすべてのものの心境をあえてフレーズ化するならば、「戦争は絶対悪である」ということ。このフレーズには、戦争への無条件・絶対嫌悪感が裏づけされていて、しかも明白に一切の戦争を廃絶するという実践的な命題がこめられている。戦争は政治の延長の上に生起するものであり、人災である。戦争を廃絶するにはそれを規定する政治体制を戦争防止・平和・安全構造に担保しておかねばならない。たとえば基地・軍隊の存在を許さない思想をもった人民の運動が世界各地に展開していること、非暴力の旗が地球の各地にはためくこと。沖縄人民は、沖縄戦と、それ以前・以後に当地で起こったもろもろの事件を重ねあわせ、つまり歴史をひもときながら、米国、日本という二大帝国主義国家の秩序抑圧にあらがい基地・軍隊の存在を拒絶する思想と戦争絶対悪とする信念をもって対峙しつづけているのである。

(『思想運動』965号 2015年9月15日号)