参議院選挙にあたり訴える
相互討論が大衆運動前進の要

論争を起こし、原則的な主張をぶつけ合う共闘をこそ


 国会内に視野を限れば、今回の選挙の結果如何で憲法の破壊に大きく舵が切られることは確かである。来る参院選でのわれわれの投票行動は、改憲勢力が三分の二の議席を確保する事態を阻止するために、一人区では野党統一候補あるいは複数選挙区では改憲や戦争法に明確な反対の意志を示している候補へ一票を投じるしかないことは明らかだ。

われわれの足下を直視しよう

 しかし、われわれ抵抗する側のなすべきことは、この選挙にも表われている人民内部の弱点を正面に見すえることではないだろうか。原則を忘れてただ実利のみに目を奪われるならば、一見抵抗しているように見えても、実際にはすでに支配階級の側に屈服しているということになりかねないからだ。
 戦争法反対運動の過程で培われた、「自立した市民」による(既成の政党や労組が介在しない)運動の力が大きく政治を動かし、これまではできなかった「野党共闘」を作り出した──安倍政権に反対する政治勢力のおおかたがそのように評価し、「画期的な運動」と称賛している。
 大衆運動を経験した人びとが層として存在した三〇年ぐらい前まで、つまり労働運動をはじめとして社会全体に分厚い大衆運動の基盤がありそれが野党の闘いを支えるような力をもっていた時代には、こうした捉え方もできたかもしれない。しかし現在の国家権力との力関係は、より厳しい運動への評価とそれにもとづく運動方針を導き出すことをわれわれに迫っている。

街頭行動と世論調査のギャップ

 反戦平和運動や改憲反対運動、あるいは反原発運動等々、諸々の闘いが献身的な活動家たちの地道な運動に支えられ、続けられている。そうした運動が昨年夏の戦争法案に反対する近年にない大きな広がりをつくった。しかし大衆運動総体の動向を歴史的に振り返れば、数十年来後退が続いてきた事実に目をそむけるわけにはいかない。
 報道された世論調査によれば、参院選に「関心がある」と答えたのは七〇歳以上では七八・三%に対して、一八、一九歳では関心があるは五四%だという(共同通信)。また、憲法「改正」の手続きを進めることへは反対四五%で賛成三六%を上回ったというが、年代別にみると四〇代以上では反対が賛成を上回ったのにたいして、三〇代まででは逆に賛成が反対より多かったという(『毎日新聞』)。そして二十四日の新聞各紙は「改憲勢力二/三をうかがう」との見出しで世論調査の結果を一斉に報じた。現状では「維新」や「こころ」と合わせなくても自公だけで改憲の発議可能な三分の二の議席数に達するかもしれないというのだ。もちろん「世論調査」はそのまま「世論誘導」でもあり鵜呑みにはできないが、大衆運動後退局面の現在の状況をリアルに見れば、厳しく受け止めざるを得ないデータでもある。
 街頭行動の盛り上がりが「前向きに」評価されることとのこのギャップをどのように解すべきか。街頭行動の盛り上がりにかかわらず、世論の動向を決定的に転換させることができなかったと認めざるをえないのではないか。

争点隠しとイデオロギー操作

 第二次安倍政権の発足以来の好景気を演出した「円安」は、諸物価を引き上げ、実質賃金が毎年低下するなかで、年金、医療費などの社会保障費が切り捨てられた。非正規労働者はこの二年で二一五万人増え、その一方で正規労働者は二〇万人減少した。子どもの貧困は過去最悪に達し、実に六人に一人が「貧困」状態に置かれている。
 支配階級はその原因が資本主義社会の必然的行き詰まりであることがよくわかっている。だからこそみずからの危機を乗り切るためには人民のいっそうの搾取強化しかないと焦っている。労働者階級・勤労人民の側にこれを正しく組織する運動がなければ、大衆は窮地に追い詰められれば追い詰められるほど、「何とかしてくれそうな」相手にすがろうとする。安倍はこの不安に付け入って「アベノミクスのエンジンを最大限にふかす」ためと「日本再興戦略」や「一億総活躍プラン」を選挙直前に打ち出しているのだ。
 《自民党ベテラン議員は「世の中の人は改憲に興味はない。中国が南シナ海を埋め立て、北朝鮮がミサイルを撃っている時に『安保廃止、改憲阻止』と訴えても『何を言ってるの?』とあきれられる」と指摘した》(『毎日新聞』六月二十四日)。世論調査でも、参院選でもっとも重視する争点を問う質問に「年金・医療」二四%、「子育て支援」一三%に続いて「憲法改正」を挙げた人は一〇%だった。この自民党ベテラン議員の方が大衆の感覚を正しく捉えている。
 「野党共闘」はこれに対して「アベノミクスは破綻した」と批判し、安定・安心の生活、希望の持てる生活、福祉・教育・医療・保育・雇用環境を守り充実させ、負担を軽くすると訴える。そのぐらいは安倍政権もいう。それが谷垣などのいう「左にウイングを伸ばす」ということだ。しかし、財源は? 金は誰が握っている? 安倍はいつものように経済界に「お願いする」だろう。「お願い」なら実現しなくても「しょうがない。でも頑張ったんだ」と言い訳できる。
 「野党共闘」は企業が溜めこんだ内部留保があるじゃないか、富裕層にも応分に負担させれば、財源は潤沢にあるという。それはそうだ。われわれ人民が搾取されれば搾取されるほど、その分企業や金持ちの取り分が膨れ上がるのは当然だ。
 では一体全体なぜわれわれは黙って搾取されるがままなのか? 青年は、労働者は、老人は、婦人は、怒りを表わさないのか? 選挙で勝って政権をとれば、搾取された富は奪い返せるのか? 話はまったくあべこべである。職場で、地域で、学園で、あらゆる場面で資本家が蓄積した分を奪い返す大衆運動の積み重ねがあって初めて選挙の結果としても現象するのであってその逆ではない。そして、大衆が直面している具体的課題のなかでしか、憲法も戦争も真剣に受け止められることはない。ましてや日常生活の不安がこれほど蔓延したなかではなおのことではないか。

沖縄の闘いが示す共闘の原則

 安倍政権をあそこまで追い込んでいる沖縄の状況をつくったのは、翁長氏が卓越した人物だったからか? 圧倒的結集の県民集会や長期にわたる基地建設実力阻止行動は選挙運動のみで作り出されたものか? まったく逆である。確固として大衆運動を闘い続けてきた結果が選挙でも勝ち、翁長知事を誕生させ、アメリカや日本政府に「基地を撤去せよ」「地位協定を見直せ」と直接に突きつけることを可能にしているのだ。目に見える行動の何百倍もの真剣な(スケジュール調整ではない)議論・論争がその過程にはあったし、それは今もある。
 極右反動の安倍政権を倒すために保守的主張をもった人びとを含む幅広い共同行動を築いていくことは重要だ。だが「さまざまな違いを乗り越えた共闘」とは、決して独自の政策や「主張を脇に置く」ことではない。原則的主張を放棄して支配的な潮流(体制側の論理)に妥協することではない。それぞれの主張を隠さずぶつけ合うなかでこそ、より正しい、敵と闘っていく上でより強固で有効な運動をつくっていくことができる。
 こうした本来あるべき共同闘争とは無縁な「闘い」の繰り返しが、「野党共闘」をして、安倍とさほど変わらないことしか主張できない現状を生んでいるのだ。

状況を変える討論をおこそう!

 この弱点がもっとも顕著に表われているのが「中国・朝鮮ならず者キャンペーン」への態度である。共産党を含めほとんどの「左派」は、声をそろえて「平和外交」を主張する。しかしそれで十分か。敵側が展開する論法は、中国・朝鮮は「平和外交」などは通用しない「ならず者」だ、「平和外交」などは「平和ボケだ」「無責任だ」という宣伝である。これへの有効な対応は真実を対置する以外にない。
 たとえば、朝鮮民主主義人民共和国が主張しているのは一貫して朝米間の平和協定を結ぶことであるという事実。一方で四月末まで数か月にわたり、朝鮮の首脳部の暗殺までを想定した米韓合同軍事演習が史上最大規模で行なわれていた事実。しかも世界中で無辜の人民を殺しまくっている米軍が主導する「演習」だという事実。これらのうちの一つでも知ることができれば、真っ当な感覚をもっている者なら、はたしてどちらが「ならず者」のなのかと疑問くらいは持つだろう。
 しかし、日本のマスメディアの歪んだ朝鮮敵視報道と、日本の近代以降こんにちまで続く朝鮮蔑視・排外イデオロギーの注入が、大衆をして事実を見る目を、言う口を自ら覆い隠させているのである。
 繰り返すが、論争を避け、原則を捨て去って慣れあうことが「共闘」ではない。討論こそがわれわれの武器であり、運動を強くする。【藤原 晃】

(『思想運動』983号 2016年7月1日号)