文芸時評 村田沙耶香著『コンビニ人間』
希望の否定

 先の芥川賞受賞作、村田沙耶香著『コンビニ人間』は、一九世紀中葉のゴールドラッシュに沸くカリフォルニアの開拓使を思わせるところがある。一攫千金をもとめやってきた連中の精神の構造はアメリカン・ドリーム、その方法は盲滅法に選鉱することであった。
 本作はコンビニアルバイト店員古倉恵子の個人的生活圏を題材に、その土壌で目にはいったものを記していく。それが的を射ていると思ったのか、選考委員村上龍は「作者は、『コンビニ』という、どこにでも存在して、誰もが知っている場所で生きる人びとを厳密に描写することに挑戦し、勝利した」といい、村田を「正確な言葉を発することができない」社会的弱者の代弁者のごとく語る。同じ口で、現実は「複雑に絡み合っているが、それはバラバラになったジグソーパズルのように脈絡がなく、本質的なものを抽出するのは、どんな時代でも至難の業だ」と傍観者の立ち位置から一応呟いてもみる。だが選者の責務は、ある文学作品が「本質的なものを抽出する」「至難の業」に、どの程度肉薄し得たかを見定めることにあるのではないか。村上はその責務を回避する。『コンビニ人間』の作者もまた「至難の業」を回避する、というより頭からそんな意識も自覚もない。
 「正確な言葉を発することができない」人びとを「厳密に描写」していたらしい作者が、思いがけずその正体をさらけだすのは、たまたま、彼女の筆が黄金の眠る鉱脈をかすめたときである。ある日古倉は、コンビニアルバイトをクビになり無職となった元同僚白羽に、偶然遭遇する。彼女は白羽の「苦悩」をきかされる。白羽いわく「世界が不完全なせいで、僕は不当な扱いを受けてい」て、「だから僕は結婚をして」相手の資産で自分の構想する「ネット起業のアイデア」を成功させ、「異物」としてかれを排除する「あいつらに文句を言われない人生」を送りたいと願う。白羽の独白をききながら、古倉は、自分を「異物」扱いする「その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」と至極真っ当な疑問を投げかけるが、白羽はきく耳をもたない。ここからは白羽の独壇場。お得意の、かれの「大嫌い」な「縄文時代」論を披歴し、その理論・歴史観で、今度は「自分を苦しめているのと同じ価値観の理屈」で古倉を攻撃する。
 この場面は、作者の無自覚にもかかわらず、ある示唆をあたえる。白羽には「あいつらに文句を言われない人生」をつかむという「希望」がある。この「希望」を支えるのが、他ならぬかれの理論・歴史観だ。それは早い話が弱肉強食の世界である。「ドレイは、自分がドレイの主人になろうとしているかぎり、希望を失うことがない。かれは可能的にドレイではないから。したがって自分がドレイであることの自覚もうまれない。ドレイであることを拒否し、同時にドレイの主人であることも拒否したときにもつ絶望感は、かれには理解できない。しかし、ドレイが脱却の行動をおこしうるのは、自分がドレイであることを自覚したときである」(竹内好著「魯迅と日本文学」)。白羽は「可能的にドレイではないから」、憎むべきはずの理論をふりかざす。
 白羽の「希望」に古倉は違和感を覚える。だが作者に「本質的なものを抽出する」「至難の業」に挑む意識がないため、白羽の「苦悩」も古倉の「疑問」も書き流される。白羽は「ドレイの主人」になりたいが「ドレイ」であることは拒否する。自身の理論のもつ矛盾に苦しみ、疲れる白羽に、古倉は「でも白羽さん、ついさっきまで迎合しようとしていたじゃないですか。やっぱりいざとなると難しいですか? そうですよね、真っ向から世界と戦い、自由を獲得するために一生を捧げる方が、多分苦しみに対して誠実なのだと思います」と恐ろしく抽象的・観念的な言辞をはく。読者は、ここから「世界と戦い、自由を獲得するため」のどんな具体的指針を得るのか。そしてそれは作の全編を通してついに明らかにされないのである。
 古倉は頃合いをみて「無理することはないんです」と話に片をつけ、自らは「コンビニ店員という動物」になることを選択し、白羽の「苦悩」を避け、自らの「疑問」をも放棄する。このラストは、一見するとディストピア小説のようだが(選考委員島田雅彦は本作を「能天気なディストピア」と形容している)、そもそも裏切られるいかなるユートピアも作者は保持しない。
 現に白羽の「希望」を相対化するいかなる歴史観も書かれない以上、作品の「絶望」は上辺だけのまがい物であるといわねばなるまい。
 かくして作者村田沙耶香は作中人物たちを見殺しにする。それは同時に、この作者が「正確な言葉を発することができない」社会的弱者の代弁者どころか、生活者・労働者の仇敵であることを暴露するのである。 【伊藤龍哉】

(『思想運動』988号 2016年10月1日号)