築地市場豊洲移転騒動の真相
時局巷談「人を喰う魚」(上)


(一) 築地市場の誕生の歴史

 築地市場(東京都中央卸売市場)の誕生は、一九二三年九月一日、マグ二チュード七・九の巨大な烈震によって都心一帯が瞬く間に焼け野原となった関東大震災に由来する。
 江戸時代から三〇〇年続いた日本橋魚河岸は築地に移転。そして東都復興事業のトリとして、ドイツ、イタリア、アメリカなど当時最先端の近代的市場を参考にして建設され、震災から一二年後の一九三五年に青果・水産の公設の卸売市場として開場。
 以来八一年、築地市場は「都民の台所」として多くの人に親しまれてきた。場内だけでも広さ二三ヘクタール、東京ドーム五個分。こんにちでは水産卸七社、青果卸一社。水産五七三、青果九七の計六七〇店舗の仲卸業者。一日の取扱量は青果約一一〇〇トン、水産約一七〇〇トン、働いている人一万四〇〇〇人、買出人二万八〇〇〇人、入場総数一日約四万二〇〇〇人。一日の売上高は、魚市場だけでも約一六億円。毎日、国内各地から新鮮な品物が集まり、二四時間眠ることなく入荷から販売まで行なわれ、いまや世界最大級の卸売市場へと発展した。
 かつては食に関わるプロのみが出入りする特別な場所であったが、昨今はテレビ、雑誌、ネットで紹介され、また外国の人たちにも人気の訪問スポットだ。
 以前、築地魚市場を訪れたフランス大使が、(早朝五時ごろから始まる「競り」取引の現場を見学しながら)「セリ人(卸売人)が指揮者で、買う側(仲卸業者)の掛け声がリズムのように場内一体にこだまする。まるでオペラを見ているようだ。日本の食文化は芸術だ」と褒めたたえたことがある。また一五歳から六四年間、マグロ仲買業者として築地市場で働く野末誠さんは「わたしたち仲卸は、内科、外科、眼科、皮膚科、指圧をかねた魚の医者。マグロの場合は一本一本、漁場、鮮度、色、脂、しまり、肉質など五感をフルに生かして、わずか一八秒程で診断する。大手商社は大量に買い付けて流通経路を省いて安く大手スーパーに卸す。産地も安全性も不確か、旬とは無関係に漁獲しますから、味も単一。」「移転で最も懸念するのは、食の安全・安心に尽きます。移転先の豊洲は、土壌から基準値を上回る有害物質、なかでもシアンは殺虫剤のほか、化学兵器(毒ガス)として使用されている猛毒です。有害物質が検出された時点で、豊洲移転は、取り止めるべきでした。」とすでに九年前に語っている。
 石原元都知事が豊洲移転を決めてから一五年余の歳月が経つ。この間、築地市場関係者を中心に豊洲移転反対の集会やデモ、都への陳情等の運動があったものの、都は「基本設計図」すら市場関係団体に開示しないまま工事を着行。
 そして多額の経費を投入して豊洲新市場建設を行なってきた。いまや土壌汚染等で移転中止の道しかない状況にまで立ち至っている。なぜこうした事態に至ったのか? かつて築地市場で働いた者として検証してみたい。

(二) 紆余曲折した移転問題

 わたしが築地で働いていた七〇年代は、まだ魚船や「レ(冷蔵)サ(魚)」と呼ばれた鮮魚専用高速冷蔵貨車で荷が運ばれていた。が、すでに六〇年代なかばから次第にトラック便が増え、国の運輸交通政策の変更ともあいまって次第にトラック便が主流に。そして一九八七年一月、ついに貨車廃止となり、元来鉄道輸送時代に合わせて造られた築地市場は、大型トラックの出入りによって混雑化し、建物の老朽化と併せて狭隘化が大きな問題となっていった。
 そこで都は、新設する大井市場(現在の大田市場)への機能分散を模索したものの、一九八五年十月、水産関係五団体四〇〇〇人が大井市場移転反対の総決起大会を開催するなど反発があり、鈴木俊一知事は「立地に優れた現在地・築地で市場再整備を行なう」と方針を変更し、都は総工費三〇〇〇億円の予算で一九九一年から築地での建て替え工事に着手する。それを引き継いだ青島知事は、約三〇〇億円かけて立体駐車場、冷蔵庫棟などを建設し、市場整備を行なっていたものの財政難を理由に工事中断。
 一九九九年四月に石原慎太郎が都知事に初当選し、同年九月、石原は築地市場を視察し、「築地は古くて、狭くて、危なくて、汚い」と放言。その後、築地市場関係者の意向を無視して東京ガスの豊洲工場跡地を移転先の最有力候補として積極的に推進したのである。
 その時、東京ガスとの交渉を一手に引き受けたのが、石原の右腕として辣腕を振るった浜渦副都知事。「ぜひ、豊洲跡地を築地市場の移転先として購入させて欲しい」と申し入れたものの、東京ガスは当時、豊洲をホテルとラスベガスのような一大歓楽街として構想していただけに、「えっ、あの土地を(生鮮食品を扱う)市場にお使いになるのですか? ガス工場の跡地ゆえとても魚市場には向いていません。おやめになった方がよいのでは」といったやりとりがあったとか。そして東京ガスは翌二〇〇〇年六月に「豊洲移転は、弊社としては受け入れ難い」と文書でもって断り、その翌年の一月には、東京ガス独自の工場跡地の土壌検査結果を公表した。
 その時、環境基準の一五〇〇倍のベンゼン、四九〇倍のシアン、四九倍のヒ素、二四倍の水銀、一四倍の六価クロムなど人体に多大な影響を及ぼす有害物質が検出され、有害物質汚染のデパートであることが判明した。
 都議会、市場関係団体からも豊洲移転への反対の声が上がったものの、浜渦は「土壌汚染を取り除く作業と費用は、都が負担しますから、ぜひとも譲って頂きたい。」と再三再四交渉を行ない、東京ガス側の法的義務である土壌汚染処理には一〇〇億円のみを負担させて、都は高額の土地代を支払って購入。
 二〇〇一年十二月、石原は「東京ガスの汚染対策は完了したので安全である」「築地市場の倍の広さ、築地に近くて、交通アクセスもよい」を条件に豊洲移転を正式決定した。

(三) 終わりなき土壌汚染問題

 しかし、二〇〇七年四月の都知事選の際、豊洲市場予定地の土壌汚染問題がクローズアップされたため、石原は、「土壌汚染調査」を再度行なうことを公約に掲げて三選を果たしたのである。
 その後、都の「土壌汚染等に関する専門家会議」の調査で、東京ガスによって汚染処理されたはずの土壌から環境基準の一〇〇〇倍のベンゼンが検出。さらに二〇〇八年五月の「専門家会議」による追加調査では、わずか六〇か所程度の調査にもかかわらず、環境基準のなんと最大四万三〇〇〇倍の(慢性的な発がん性物質。造血系ガンの発生、吸入すると胎児の奇形などをもたらす)ベンゼンや(青酸カリ、青酸ガスの別名の)シアンなど検出限界値の八六〇倍(その後の調査では九三〇倍)という危険な有害物が市場予定地四〇ヘクタールの三分の一から検出された。
 この結果を踏まえて「専門家会議」は、二〇〇八年七月、敷地全体の地表から深さ二メートルまで土を入れ替え、その上に高さ二・五メートルの盛り土をすることを「報告書」に提言。
 この「専門家会議」は、環境省や厚生省等出身のいわゆる「御用学者」の集まりだが、さすがにこれだけの有害物質が検出された以上、本来は「豊洲移転は危険ゆえ、中止すべき」と提言すべきところを、移転を前提に「盛り土」案を「豊洲移転」の条件として提言をしたわけだ。
 しかし当時は、都知事肝いりで開業した「新東京銀行」が経営危機になり、多額の負債を抱え、一〇〇〇億円の減資と四〇〇億円の追加出資の決定をしたばかり。「専門家会議」に「盛り土」案を行なえば一〇〇〇億円以上かかると言われて石原知事は難色を示し、二〇〇八年七月、「専門家会議」を解散し、土壌汚染の専門家不在の知事主導による「技術会議」(座長は、ロボット工学専門の大学教授。その後石原の推薦で、首都大学東京の学長となる人物)を代わりに設置した。
 この頃は、民主党が政権を取り、都議会も民主党が躍進した時期でもあり、石原都知事は厳しい状況に置かれていた。石原は記者会見で、「盛り土」案とは違う多額の費用と時間のかからない工法を示唆。ほぼこのあたりから土木技術系職員の意向が強く反映され、経費が嵩む「専門家会議」の提言はいつしか脇に置かれて、こんかい公となった地下空間、いわゆる(汚染対策や地下水監視のための作業スペースを兼ねたと称する)「モニタリング空間」と呼ばれるあの地下空間が設計されたのである。そして二〇一一年八月に交わされた汚染土壌対策工事の契約書には、盛り土を行なわないということで、約三三三億円計上され、石原知事の印鑑が押されていたのである。
 一方、この盛り土計画案が変更された時期は、いみじくも東日本大震災で豊洲市場予定地一帯に液状化が起こり、地下の汚染土壌が地面に吹き出た年でもある。それゆえ日本環境学会の専門家からは「土壌汚染は完全には解決不能、食品市場としては不適切」と指摘された。にもかかわらず、その後盛り土なしの地下空間工事に着手した。
 しかも東京都のホームページならびに都議会に対しては「建物の下には四・五メートルの盛り土がなされており、汚染土壌対策には万全を期しているので、豊洲新市場は安全である。」といった虚偽の報告、宣伝がまかり通っていたのである。
 豊洲移転を推進してきた人たちは、「専門家」も含めて土壌汚染について「危険が証明されていないものについてあえてやかましく言及することは、不安を助長し煽るだけ。世のなかに危険がゼロということはあり得ず、日常生活のなかでも人はさまざまなリスクを背負って生きている。豊洲にたとえ汚染物質が多少残っていたにしろ、リスクが証明されていない以上、受け入れてもいいのでは」。つまり環境基準値以下であれば、特に問題なしという考え方である。この考えは、この国の環境公害、原爆や原発被害にも共通した問題である。
 「ガス工場というのは、有害物質のデパート。それゆえ汚染対策が行なわれ、たとえ濃度としては薄く、量としては微量だったにしても、繰り返し長い期間、身体のなかに取り込んでいった場合、危険性は大である。確実に安全だという保障がないものについては、極力遠ざけなくてはいけない。豊洲移転は、好むと好まぬと『壮大な生体実験』の場になりかねない。」「とりわけ食の安全を左右する問題だけに、『予防原則』の立場で対応するのが安全である。基準値のみで判断することは極めて危険である。」という科学者の指摘こそ正論だといえる。
 ましてや豊洲工場跡地は、埋立地であるとともに、三方を海に囲まれた低地ゆえ、地下水や土壌水分は、地殻変動でたえず上昇し、地面に吹き出る可能性は大である。特にベンゼン、シアン、水銀などは常温でもガス化し蒸発しやすく、アスファルトやコンクリート舗装の割れ目から噴出する可能性は大だ。都内でМ7クラスの直下型地震が今後三〇年以内に発生する確立は七〇%と言われているだけに、食品を扱う市場としてふさわしくない場所であることは明らかである。  (つづく)【大橋省三】

(『思想運動』989号 2016年10月15日号)