天皇「退位」騒動をめぐる思想状況
日本帝国主義の支柱「象徴天皇制」を撃つ


 昨年十月十七日に発足した「天皇の公務負担の軽減等に関する有識者会議」は、十一月末までに専門家一六人からの意見聴取を終え、年明けに論点整理を踏まえた方向性が示される運びとなった。国民的議論を、と政府が言うのはもとより上辺だけのことであって、メンバー構成を決めた段階から、「生前退位」は一代かぎりの特例法による、天皇の「公務」のあり方は議論するが女性・女系天皇の是非などは議題から外すなど、早々と片をつける政府の当座しのぎは、最初から見えみえだった。自分の任期中に改憲の道筋をつけたい安倍は、改憲の日程を狂わせかねない「天皇の意向」などは、あらかじめ取り除いておきたかったのだ。
 かくして「懸案」はまたも先送りされる。近代天皇制がでっち上げた「萬世一系」の虚偽意識にもとづく皇位継承ルールは、このイデオロギーそれ自体に呪縛され、いまや破綻の危機に瀕している。八月八日のビデオ・メッセージを貫く明仁の真意は、市民派の一部が勘違いしたような、安倍改憲路線の前に立ちはだかることなどではなかった。
 「象徴としての務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことを念じ」と、象徴天皇の地位の安定的継承への並々ならぬ危機意識を表明したのである。
 天皇制を存続させることは、疑問を差し挟む余地のない全国民的当為であると見なし、天皇制擁護の一色で塗り固めたマスメディアの報道によって、暗黙の「国民的合意」が強制される。この異常さを告発する言論は、差し当たり砂粒のような存在でしかないが、真理はもとよりわれらの側にある。権力の意図するところを見抜き、かかる状況を黙認し客観的には手を貸しているに等しい労働者政党や市民派活動家のありようを批判すること、少数意見であることに臆することなく天皇制の廃止=共和制の実現を主張しつづけること――それらがいま、わたしたちのなしうる唯一無二、最大の責務でなければならない。

自縄自縛の果てに

 近代天皇制が皇位継承を制度化した際の資格要件は三つの要素で構成されていた。①「譲位」の否定、②男系男子による継承(女性・女系の排除)、③「庶出」の容認がそれである。
 天皇の歴史において「譲位」はむしろ普通だった。近代になって、この「譲位」の制度は、皇位継承をめぐって生じた争いの歴史や、権力と権威が二重化しかねない弊害などを理由に、決然として退けられた(伊藤博文「天皇ノ終身大位ニ当タルハ勿論ナリ。又一タビ践祚[即位――引用者注]玉ヒタル以上ハ随意ニ其位ヲ遜レ玉フノ理ナシ」一八八七年)。退位を認めると不就任の自由をも認めることにつながり、天皇制の危機を招来するといった警戒感も働いていた。こうした議論が今回のプロセスで右翼言論人によって鸚鵡返しのように繰り返されたことは驚きだった。天皇の人格などは初手から二の次であり、それが天皇に押しつけた権力の意思にほかならなかった。
 男系男子主義の採用は、歴史上存在した八人一〇代の女帝が男系男子によって皇位を継承するための「中継ぎ」にすぎなかったとして、正当化された。女性天皇が迎える皇婿(入り婿)が政治的野心の持ち主だった場合を危惧する反対論も根強く存在した。「家長」を頂点とする「家」制度、長子による相続、「家督」の観念が当たり前の時代だったのである。
 女性・女系の排除と「庶出」の容認とは裏腹の関係にあった。皇統を継ぐ男子を調達することが「庶出」の容認によって可能となるからである。
 明治天皇には側室に産ませた子女が一五人いた。大正天皇からさかのぼること九代の天皇はみな「庶出の天皇」であった。要路の高官や有産者、総じて支配階級に属する連中が妾を囲うことが、これまた当たり前の時代だったのである。
 戦後の象徴天皇制は、「萬世一系」や「国體(体)」観念の継承にこだわり、終身制と男系男子主義を踏襲する一方、理由を説明することなく「庶出」を切り捨てて出発した。天皇といえども「蓄妾」を正当化することは、占領当局に対してはもちろん国民世論に対しても、もはや不可能であった。「皇位継承の危機」はここに由来する。
 しかも、少子・高齢化の波は天皇一族にもひたひたと押し寄せてきた。明仁の即位は五四歳、皇太子はすでに五六歳を数える。天皇のビデオ・メッセージの背後で、皇位継承者が実質三人(皇太子の即位後は、かれに万が一のことがないかぎり、実質一人)という、有資格者の払底・調達難が現実化しつつあった。
 このことは、小泉内閣が二〇〇五年に「皇室典範に関する有識者会議」を設置し女性・女系天皇に道を開こうとした試みや、野田内閣が二〇一二年の任期半ばで投げ出さざるをえなかった「女性宮家の創設」案として、強く意識されてきた。
 しかしこうした対応策は、日本会議や神道政治連盟、それらに巣食う自民党議員の反対によってことごとく葬り去られた。明仁が「政治の不作為」(二〇一六年八月九日『朝日』社説)にいらだっていたとしても不思議ではない。かれは「政治の不作為」に対して(違憲の)一石を投じた。それが「生前退位」の表明であった。
 『文藝春秋』二〇一六年十月号が日本会議国会議員懇談会の所属議員(二九〇人中)三八人を対象にアンケート調査をおこない、三四人から回答をえた。それによると、意外にも多数が「生前退位」に好意的だった反面、「女性宮家の創設」に反対する意見が賛成意見を圧倒した。それは「女性・女系天皇」に頑強に反対する勢力の存在を明るみに出した。
 皇位継承有資格者を増やすことが天皇制存続の鍵をにぎる。にもかかわらず、「萬世一系」や「国體」観念に凝り固まった頑迷固陋な連中が隠然とした勢力を保ち、現行制度の維持を頑固に主張してやまない。その間にも時間は刻々とすぎてゆく。選択肢は二つに絞られる。女性・女系天皇の受容か、戦後改革の一環として天皇家から追放された一一宮家(一九四七年十月十三日の皇室会議で議決。かれらには四七四七万五〇〇〇円の手切れ金が支払われた)の復籍か、道は二つに一つである。
 野田内閣の「女性宮家の創設」案に反対した急先鋒は安倍晋三その人であった。『文藝春秋』二〇一二年二月号に寄稿した安倍は、「女性宮家を認めることは、これまで百二十五代続いてきた皇位継承の伝統を根底から覆しかねない」と書き、「戦後に臣籍降下(新憲法下に「臣」などあろうはずがない。ましてや「降下」とは何ごとか――引用者注)された男子のいる旧宮家の復活」を唱えた。このことは記憶にとどめておくべきだろう。

いま甦る皇国史観

 八月八日のビデオ・メッセージを受けたマスメディアの翼賛報道は常軌を逸していた。在京六紙の翌九日付「社説」のうち護憲派の信頼厚い『東京新聞』が、「皇室の弥栄へ政府の責任重い」と書いた『産経』も顔負けの、反動性において突出していた。
 社説は「天皇陛下が生前退位の意向を表明された。超高齢社会への備えも怠ってきた。
 天皇制永続のための改革にも踏み込むべきときだ」という前置きから始まる。よくもまあぬけぬけと言ったものである。だが核心部分はこのあとにつづく。「日本の歴史には推古天皇はじめ八人十代の女性天皇が存在し、重要な役割を演じた。女性天皇がすでにあり、さらには女系天皇を考慮していくことが、伝統を継承し、お言葉のいう『伝統を現代に生かす』『人々の期待に応える』ことになるのではないか。/万世一系の天皇家が千五百年、あるいは二千七百年にわたって統治者であり続けた歴史は世界に類がない。誇るべき内実は一系にあり、男系や女系ではないはずだ」。
 引用箇所では二つのことが主張されている。「女性・女系天皇」を「皇位継承の危機」の打開策として積極的に押し出したこと、歴史認識において皇国史観を臆面もなくさらけ出したこと、これである。
 前者は、選択肢の一つ「女性・女系天皇」容認論のお先棒をかつぎ、世論誘導の地ならし役を買って出る意思表示と見た。各紙が天皇制存続への期待感をにじませたなか、ここまで明言したのは『東京新聞』のみであった。
 後者は皇国史観の表明そのものと言ってよい。天皇中心の国家観をこれほどまでにあからさまに表明した記事は滅多に読めるものではない。「萬世一系」は「国體」とともに近代天皇制のイデオロギー的支柱であった。それは、天皇の起源は遠く古代史にまでさかのぼり、代々一つの血統によって脈々と受け継がれ、悠久の時を刻んできたという歴史の偽造の上に成り立っている。「千五百年」説も「二千七百年」説も根拠は何ら示されていない。「二千七百年」説に至っては、記紀(古事記と日本書紀)の伝承を史実として強要した戦前の天皇制国家のイデオロギーを無批判に踏襲するものであり、見すごすことができない。それは戦時下の一九四〇年に政府主催で挙行された「皇紀二六〇〇年式典」の記憶を呼び覚ます。この歴史観によれば、初代の神武天皇が即位したのは紀元前六六〇年であるが、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の成立が二世紀後半から三世紀前半であること、紀元前六六〇年は古代ギリシャ文明やエジプト文明が花開いた時期であり、「二七〇〇年」は荒唐無稽な作り話にすぎない。
 神武から開化に至る九代の天皇は存在しなかった。文献学的批判によって記紀の作為性を明らかにした研究は戦前にさかのぼる。戦後の歴史学は「萬世一系」の根拠を覆す画期的な成果をあげた。王朝交代説は古代史研究の常識となった。もはや何をかいわんやというほかはない。
 それにしても、「二千七百年にわたって統治者であり続けた歴史は世界に類がない」とは、何たる言い種だろう。天皇を頂点とする万邦無比、世界に冠たる「国體」(右翼の常套句「くにがら」)という必然的に排外主義・侵略思想に転化していったイデオロギーが、「護憲派」の一角『東京新聞』によって公然と主張されたのである。

明仁は「護憲派」か

 明仁は「平和主義者」であるという、市民派の一部に浸透した固定観念は、それこそ「思考停止」の最たるものである。
 明仁は就任にあたり語った談話のなかで「皆さまとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い」云々と、憲法九九条の「憲法尊重擁護義務」に言及した。当たり前のことを当たり前のように言ったまでではないか。そこに明仁個人のどんな思いが込められていたかはどうでもよい。天皇の憲法上の地位は、ヨーロッパの王室と同様(国王が国家元首である場合を含めて)、「政治的無能力」を前提として与えられた儀礼的なものにすぎないからである。
 明仁を「護憲派」と見なす人たちは、八月十五日の「全国戦没者追悼式」における「お言葉」に挿入された、安倍が決して言おうとしない「深い反省」のフレーズが念頭にあるのだろう。あるいはまた、高齢をおしてなお、かつての激戦地に足を運ぶ「慰霊の旅」に心打たれるからかもしれない。こういう風潮に釘をさす言論はきわめて少ない。『週刊金曜日』九月二日号、伊藤晃「『護憲派』が『明仁派』でいいのか」は、その数少ない一つだった。
 明仁は昭和天皇の戦争責任に言及したことがない。一九八九年八月四日の記者会見で「昭和天皇は平和というものを大切に考えていらっしゃり、憲法に従って行動するということ……をお勧めになり、大変御苦労が多かったと推測しています」と述べた記録が残る。「自ら幼年期から少年期にかけて体験した戦争で父の責任について確認しようと昭和史の基礎文献を読破した」(原武史・吉田裕編『岩波 天皇・皇室辞典』二〇〇五年)明仁が知らないはずがない。戦争責任をスルーして生き延びてきた天皇制の戦後史に照らせば、仮に自覚していたにせよ言えるはずもなかった。戦争責任に言及すれば自身の存立根拠を掘り崩すことにもなりかねない。だから「御苦労」などと昭和天皇に免罪符を与えるような無責任な物言いとなった(ならざるをえなかった)のである。
 安倍晋三が十二月二十七日にハワイを訪問し、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊した。安倍のハワイ訪問が発表された二日後の七日、中国外務省の陸慷報道局長は記者会見で「日本が深く反省し、誠実に謝罪したいのであれば、中国側は多くの場所を慰霊のために提供できる」と述べ、南京大虐殺や満州事変、細菌兵器を研究開発していた旧日本軍「七三一部隊」に関する三つの展示施設の名をあげた。この批判は明仁の「慰霊の旅」にそっくり当てはまる。かれは、本来ならば真っ先に行ってしかるべきところに、行ってはいないのである。
 一連の退位報道に好意的に反応した大多数の日本国民は、市民派を含めて、八月八日のメッセージそのものが憲法違反に当たることには、まったく無頓着であった。「第二の玉音放送」はもってのほかとして「平成の人間宣言」や「第二の人間宣言」といった言説まで飛び出した。明仁のメッセージを「憲法違反」と決めつけたのは、憲法を遵守する気などさらさらない右翼言論人だったことが強く印象に残った。かれらは、天皇に敬意を払っていると見せかけた慇懃無礼いな言葉使いのうちに、明仁の近代天皇制からの逸脱に強烈な不満を表明した(たとえば有識者会議第一回ヒヤリングにおける平川祐弘発言)。
 明仁を「護憲派」に仕立てる(仕立てたがる)人たちに言いたい。あなたたちは天皇は国家機関の一部だという事実をわきまえるべきだ。これが定説なのだから。天皇はしょせん権力支配のための一道具にすぎない。
 憲法第四条第一項は「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と定める。天皇がなしうる行為はこれにかぎられる。その「国事行為」には、第七条第七項「栄典を授与すること」のような、天皇の権威を高める行為がおのずから含まれる。しかも第三項「国会を召集すること」を悪用して国会の開会式に出席し、一段と高みから「お言葉」を述べるといった、戦前のそれを踏襲する例に示されるような解釈改憲がまかり通ってもいる。第一条の「国民統合の象徴」に名を借りた違憲の「公的行為」は、事実上野放しのまま放置されてきた。
 明仁は、こうした数々の違憲行為を含む「象徴としての務め」を、「全身全霊をもって」果たしてきたのである。

「護憲」の再定義を

 戦後の護憲運動は、二度と戦争の惨禍を繰り返さない決意のもと、「九条」という一点にこだわって展開された。
 「国事行為のみを行ふ」という天皇に対する憲法上のしばりは、時の権力の恣意的運用によって抜け穴だらけ、実質的な解釈改憲が進行した。護憲運動はこれに対して有効な歯止めをかけることができなかった。いや、歯止めをかけようとする意欲さえ失ってしまった。明仁を「護憲派」に見立てる市民派も天皇の行為の違憲性に目を背けている。
 天皇翼賛体制はすでに完成の域に達した観がある。
 天皇条項を含めて憲法を丸呑みすることが果たして「護憲」なのか。「護憲」の意味を再定義すべきではないか。ここから二つの命題が導かれる。
 第一に、天皇の行為の憲法からの逸脱を批判し、憲法の枠内に押し戻す要求を「護憲」の範疇から締め出すのは、論理上、一貫性に欠ける。
 第二に、憲法の条文を字面だけで解釈するのは、法解釈として間違っている。周知のように、天皇制は戦後、九条との引き換えで存続が決まった。九条を改廃するなら天皇条項を廃止しなければ筋が通らない。
 現行憲法は当時の内外諸勢力の力のバランスを背景に妥協の産物として成立した。米占領当局(GHQ)と天皇制の温存をめざす日本の支配階級のあいだの政治的駆け引き、その駆け引きを監視し規制する機関として極東委員会(天皇制廃止に傾くソ連・中華民国・オーストラリアを含む一一か国で構成、在ワシントン)と対日理事会(在東京)が介在した。極東委員会と対日理事会の背後には、第二次世界大戦が反ファッショ・民主主義擁護の戦争として連合国の勝利に終わったこと、とりわけ社会主義がソ連一国から東欧に広がる趨勢や反帝民族解放闘争の飛躍的発展という、国際情勢に生じた根本的変化があった。天皇財産の没収(国有化)、「統帥権の総攬者」としての天皇の地位の剥奪、九条との刺し違えによる「象徴」という枠組みでの天皇制の延命は、文字どおり妥協の産物であった。
 すなわち、象徴天皇制は、天皇制廃止を内包した「過渡的・暫定的性格」(奥平康弘『萬世一系の研究――「皇室典範なるもの」への視座』岩波書店、二〇〇五年刊)を免れることができない。「天皇制廃止」を掲げる正当性は憲法解釈として成り立ちうるのであり、この要求は未完・敗北に終わった戦後民主主義革命の、こんにちにおける継続・完遂にほかならない。
 国家の主権形態は、歴史上、「君主主権」から「国民主権」へ、「国民主権」から「人民主権」へと発展した。君主制を現在にとどめるヨーロッパの王室は、すでに述べたように政治的権能の否定、儀礼的存在として命脈を保っているにすぎないのであり、いずれは共和制に席を譲る運命にある。天皇制といえども例外ではありえない。

二〇一八決戦の年

 天皇制はなぜ必要か。誰にとって、何のために役立っているか。
 この問いに答えたインタビューがある。三谷太一郎(東大名誉教授)は、「(大日本帝国)憲法実施後に国会で政治的対立が激化することを見越して、権力闘争の外に天皇が存在することが対立の『緩和力』となり、国民統合にとって有益」であると論じた福沢諭吉の『帝室論』(一八八二年)を引き合いに出し、次のように言っている。「現在の日本の政治は、懸案を多数決で決めさえすればよいという多数決主義と、それに抵抗する少数者の意見を尊重すべきだという議論が非生産的に対立しています。しかし、多数・少数を超えた、憲法でいう『国民の総意』に基づく権威を欠いた権力闘争だけでは、安定した政治秩序は作れない」(「『お言葉』から考える」八月十八日『朝日』)、天皇が「国民の総意」を代表することで政治秩序が保たれる、と。
 三谷は天皇が存在することによる政治闘争(階級闘争)の抑止効果、体制の安定性の確保への期待を語った。
 だが、明仁ほど、国民意識を統合するため能動的に振る舞ってきた天皇はいない。明仁とかれの一族の日常の振る舞い、とくにマスメディアによるそれらの報道をとおして発揮される政治的効果は、計り知れないものがある。天皇・皇后が災害の被災地に足を運び、被災者を慰め激励する行為は、天皇制維持のために不可欠な働きをしてきた暴力装置の発動への恐怖心と相まって、大衆の批判精神や反権力意識の覚醒を妨げ、眠り込ませ、権力に従順な国民意識を保持するうえで絶大な威力を発揮してきた。人民を支配する国家機関の一翼をになう天皇一族を人民の税負担で養うことができるのだから、支配階級にとってこれほど安い買い物はないであろう。
 天皇制という使い勝手のよい、(戦闘機約一機分に相当する宮内庁を含む皇室関連予算一七〇億円強の)安上がりな体制安定装置を、権力が簡単に手放すはずがない。必要に迫られれば、新しい事態に適応しつつ、マスメディアを総動員した世論操作を作動させる態勢がすでに完備しているからである。
 新しい年が明けると、通常国会への特例法案の提出、国会承認と型どおりのスケジュールをこなし、翌二〇一八年の明仁の退位と新天皇の就任、同年秋の即位礼・大嘗祭執行のシナリオが動き出す。過去の経験からそれは、権力機構とマスメディアをあげての、「国民統合」のための一大イベントになるはずである。先例にならい、神道形式を伴った、違憲の山が築かれるであろう。
 ときあたかも、それに符節をあわせるかのように、「明治一五〇年」の記念行事がセットされた。十一月三日「文化の日」を「明治の日」(旧「明治節」)と改称する祝日法「改正」運動も動き出した。
 NHKによる大河ドラマ「西郷どん」の制作発表がこれにつづいた。石原慎太郎・亀井静香らが、明治維新の立役者で「朝敵」となった西郷らの合祀を靖国神社に申し入れたのも、こうした動きを見すえた行動だったに違いない。
 二〇一八年の安倍明文改憲を射程に収めつつ、一見バラバラに見えた細い流れが一つにあわさり、濁流となって押し寄せる予感に満ちた二〇一七年が明けた。「護憲」陣営の側の劣勢は覆うべくもない。
 二〇一八年を決戦の年となしうるかどうかは、ひとえに運動主体の厳しい自己剔抉と、諸勢力・諸潮流の垣根を越えた協働への真摯な努力のいかんにかかっている。【山下勇男】

(『思想運動』994号 2017年1月1日-15日号)